2023年12月1日、高校球界屈指の名将として知られる迫田穆成さんが亡くなりました。84歳でした。迫田さんは1957年夏、広島商のキャプテンとして甲子園優勝、監督としても73年夏に全国制覇を達成しました。その後、如水館高校の監督に転じ、同校を春夏合わせて8回、甲子園に導きました。19年の夏からは竹原高校の指揮を執っていました。
1973年のセンバツは、怪物人気で沸き返っていました。作新学院(栃木)の“怪腕”江川卓さんを、どこが倒すか。それが最大にして唯一の大会の焦点でした。
センバツ出場を決めた72年秋の関東大会の成績は圧巻です。
1回戦 東農大二(群馬) 6回1安打 無失点 13奪三振
準決勝 銚子商(千葉) 9回1安打 完封 20奪三振
決勝 横浜(神奈川) 9回4安打 完封 16奪三振
さながら難攻不落の城でした。
迫田さん率いる広島商がセンバツ2回目の優勝を果たすためには、江川さん擁する作新に勝たねばなりません。
とはいえ、正攻法で立ち向かっても、とても勝ち目はありません。策士で鳴る迫田さん、とんでもない作戦を思い付きました。
それを明かしてくれたのが、当時、広島商のファーストを守っていた町田昌照さんです。
「迫田さんが考えついたのが一死二、三塁でのスクイズ。それもバッターがわざと空振りしてランナーを返すという奇想天外なもの。
具体的に言うと、バッターが空振りするでしょう。すると三塁ランナーは三本間ではさまれる。ここで演技力が必要になってくる。
あわてて三塁に帰るのではなく、できるだけ本塁に寄っていくんです。本塁に逃げていきながらサードに追っかけさせる。
と、その時、二塁ランナーが三塁を回り、ホームベースに全力で突っ込むんですよ。三本間にはさまれたランナーは三塁ランナーに追い越された時点でアウトになる。だから、追い越される寸前、3フィートラインを自らオーバーし、3フィートラインアウトと大声を発して、その場を退く。そして全力で三塁ベースを回ったランナーは、そのまま勢いでホームベースに滑り込む。この練習を秋から春にかけて嫌というほどやりましたよ」
実はこの奇策を、広島商は一度だけ練習試合で試したことがあります。ところが審判がパニックに陥ってしまい、走者ふたりにアウトを宣告してしまったそうです。
試合後、迫田さんが抗議しながらルールを説明すると審判は「そうか、分かった」と素直に納得したといいます。審判ですらプレーの意図を理解するのに時間がかかったわけです。それほど高度な作戦だったということです。
苦笑いを浮かべながら町田さんは続けました。
「しかし、今考えたらおかしいですよね。そもそも『バッターがかすりもせん』というピッチャーにふたりもランナーを出せるわけないじゃないですか。
でも、それが広商のいいところ。何が何でも1点をとりたいという意思の表れが、この作戦やったと思うんです」
果たして広島商は作新と準決勝で対戦します。なぜか、この試合、江川さんは本調子ではありませんでした。2回裏には先頭打者から3連続四球を与えてしまいました。
実は、この乱調には理由がありました。
後日、江川さんから聞いた話です。
「前日、雨で試合が順延になりました。部屋にいると報道陣からガンガン電話がかかってくるので、食堂の横のソファーで横になっていた。短いソファーだったため、頭がはみ出てしまい、首を痛めてしまった。起きると首が全然、回らないんです。だから試合中は一塁への牽制もできなかった」
1対1の8回裏、広島商は先頭の金光興二さんが四球で出塁します。続く川本幸生さんはバントを失敗し、ファーストフライに倒れますが、三番・楠原基さんの打席で金光さんが二盗を決めます。首を痛めている江川さんにランナーを振り向く余裕はありませんでした。
楠原さんはショートへの内野安打で一死一、二塁。四番・大城登さんは三振に倒れましたが、五番・大利裕二さんの3球目に金光さんは三盗を企てます。もちろん全て迫田さんのサインです。
「投げるな!」
江川さんの叫びは大歓声にかき消されました。意表を突かれたキャッチャーの小倉(現・亀岡)偉民さんの送球は高くそれ、金光さんはまんまと本塁を陥れたのです。
これが決勝点となり、広島商は2対1で作新に勝利しました。
決勝で広島商は横浜(神奈川)に1対3で敗れ、優勝こそなりませんでしたが、江川・作新を倒した、あの一戦こそは、迫田さんが甲子園に残した最高の作品だったように思われてなりません。
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