旭川大(北北海道)、北照(南北海道)に続き、沖縄尚学の夏の甲子園出場が決まりました。5年ぶり8回目です。同校は1999年と2008年のセンバツを制している沖縄の名門です。
21日、沖縄セルラースタジアム那覇で行われた決勝戦、相手はプロ注目の左腕・宮城大弥投手を擁する興南でした。同校は10年に春夏連覇を果たしています。
この試合、沖縄尚学は初回に4点を先制したものの、その後、逆転を許して4対5。6回に同点に追いつき、試合はそのまま延長戦に突入しました。延長12回、沖縄尚学が2点を勝ち越しましたが、3年連続甲子園出場を目指す興南も粘ります。その裏、同点に追いつき、試合は延長13回へ。ここで沖縄尚学は宮城投手を攻め、2死満塁。4番・水谷留佳選手がフォアボールを選び、押し出しで決勝点をもぎ取りました。
比嘉公也監督は喜びをこう語りました。
「大会中に選手が成長してくれました。3回戦で沖縄水産に勝ってからあきらかにチームが変わりました。守備でもエラーをしなくなり、たくましくなりましたよ」
沖縄尚学の前身は沖縄高校です。1983年に大学予備校の尚学院が経営に参画し、現在の校名に変わりました。
前身の沖縄高には輝かしい勲章があります。今から57年前の1962年夏、沖縄勢として初めて地区予選を勝ち抜き、甲子園に出場したのです。
沖縄は1958年夏、第40回記念大会で初めて代表校を甲子園に送りました。46都道府県の代表校に加え、返還前の沖縄からも一校が選ばれたのです。沖縄予選を制した首里高が栄えある第一号となりましたが、それからは3年続けて南九州大会で負けていました。まだ内地の高校との間には、かなりの実力差があったと言います。
南九州大会を制した沖縄高の57年前のエースは現在、中国放送の野球解説者として活躍中の安仁屋宗八さんです。現役時代は広島と阪神で活躍しました。右バッターの懐を鋭くえぐるシュートは、あの長嶋茂雄さんが手を焼いたほどです。
2年前、安仁屋さんに「沖縄と野球」について聞きました。
「(戦後の)沖縄は野球が盛んでした。私も上の兄貴2人が野球をやっていて、その影響で子供の頃からボールを投げて、打っていました。でもモノ不足の時代ですから、テントの素材に雑巾を詰めた手作りのグラブ。バットは焚き火に使うような木の棒でしたね」
昭和19年生まれ。敗戦後の沖縄で育った安仁屋さんの少年時代が目に浮かぶようです。
当時、南九州大会は沖縄と宮崎県の代表2校による争いでした。安仁屋さんが続けます。
「宮崎と沖縄で1年おきに(大会を)やっていた。僕の時も、いわゆる敵地ということもあって宮崎県勢に勝つのは難しいだろうといわれていた。というのも当時、高鍋に清俊彦という後に西鉄や近鉄で活躍するピッチャーがいて、これが九州ナンバーワンの評価を得ていたんです。ところが宮崎県の決勝で高鍋が負けてしまった。僕らが見ている前でね。それで勝った大淀高と戦うことになったんです」
----プロで通算100勝を記録したあの清投手が打たれたんですか?
「いや、たまたま相手の打球が足に当たったんです。ピッチャーライナーを避けきれなかった。それから、おかしくなって確か1点差で負けたんじゃなかったかな。ウチの監督が"清が来たら、オマエらまず打てんぞ"と言ったのを覚えていますよ」
----大淀に勝ち、甲子園出場を決めた時、沖縄は大騒ぎだったでしょう?
「でしょうね。でも、僕らはピーンとこなかった。“あ、勝ったんだ”とじわじわ感激が広がってきたのは次の日になってからですよ」
安仁屋さんによれば、当時と今を比べると「隔世の感がある」と言います。沖縄県勢の甲子園優勝は春3回、夏1回。プロ野球に目を向けると現役の沖縄の高校出身者は、山川穂高選手(埼玉西武)を筆頭に19人を数え、今では球界における一大勢力です。今夏の沖縄尚学もダークホース的存在と見られています。
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