甲子園で春夏連覇を果たしたのは、1962年の作新学院高(栃木)、66年の中京大中京高(愛知)、79年の箕島高(和歌山)、87年のPL学園高(大阪)、98年の横浜高(神奈川)、2010年の興南高(沖縄)、12年と18年の大阪桐蔭高(大阪)の7校だけです。
深紅の大旗が初めて沖縄に渡ったのは2010年です。決勝で東海大相模高(神奈川)を13対1で破り、史上6校目の春夏連覇を達成しました。
興南の先発はサウスポーの島袋洋奨投手。メジャーリーグの日本人パイオニア野茂英雄さんばりの豪快なトルネード投法がトレードマークでした。
1回表、いきなりピンチを迎えます。1死一、二塁で打席には後に読売ジャイアンツに進む4番・大城卓三選手。磨きをかけてきたツーシームで併殺にとり、ピンチを切り抜けました。
0対0の均衡が破られたのは4回裏です。興南は、後に阪神タイガースに進む一二三慎太投手から、7本のヒットを集中して一挙7点を奪ったのです。
感心したのは、7本のヒットのうち5本がセンターから逆方向への打球だったことです。0対0の1死二、三塁の場面。「ボール球には手を出さない。打てる球を逃さずに打つ」と自らに言い聞かせて打席に入った7番の伊礼伸也選手は、一二三投手のストレートをセンター前に弾き返しました。
サイドスローから打たせて取るピッチングを身上とする一二三投手は、執拗にボディブローを浴びているような心境だったのではないでしょうか。
コツコツと連打を浴びせ、相手が弱ったと見るや一気に畳み込む。まるで同校OBの元世界ライトフライ級チャンピオン具志堅用高さんのボクシングを見ているかのような戦いぶりでした。
勢いに乗る興南は、その後も攻撃の手を緩めず、5回に1点、6回に5点を加え、13対1で大勝しました。ボクシングで言えば、実質的には興南の4回KO勝ちでした。
チームは一朝一夕に強くなるものではありません。07年にOBの我喜屋優さんが監督に就任し、チームは徐々に力を付けていきました。
興南と言えば忘れられないのが68年の夏です。あれよあれよという間に勝ち進み、準決勝で優勝した興國高(大阪)に0対14と大敗したものの、甲子園に大旋風を巻き起こしました。その時のキャプテンで、4番を打っていたのが我喜屋さんでした。
高校を卒業した我喜屋さんは社会人野球の大昭和製紙富士に入り、しばらくして大昭和製紙北海道に移籍しました。太陽が燦々と降り注ぐ沖縄生まれの人間が凍てつく北海道で暮らす大変さは、想像を絶するものがあったに違いありません。
我喜屋さんが監督に就任してから取り入れた練習法のひとつに、長靴を履かせ、雨がっぱを身に付けさせる、というものがありました。
沖縄は5月から9月にかけて梅雨と台風の影響で雨が多くなります。必然的にグラウンドでの実戦練習は少なくなります。そのハンディを補うには、どうすればいいか。
我喜屋さんは北海道での体験をいかします。雪上で選手たちは長靴を履いてノックを受けていました。これは下半身の強化にもつながりました。
当時を、本人はこう振り返っています。<北海道に行ってよかったのは、冬場の半年間、雪や寒さに対する工夫や知恵がついてきたこと。そういった逆境を味方にしたのが北海道のチームでした>(沖縄電力公式HPより)
逆境こそは宝なり――。この“我喜屋イズム”が、沖縄に歓喜をもたらせたのです。
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