
今回は哀悼の意を込めて、さる6月3日、89歳で逝去した長嶋茂雄さんの高校時代を回顧してみましょう。長嶋さんの母校は千葉県立佐倉一高(現・千葉県立佐倉高校)。創立233年の歴史を誇る名門校です。
長嶋さんの自著『ネバーギブアップ』(集英社)によると、野球を始めたのは小学校4年の時でした。<それまで敵性スポーツとして、嫌われていた野球が、佐倉市一帯で大流行した>(同前)ことがきっかけだったそうです。
<バットは、青竹である。ボールはビー玉を芯に、乾かした里芋の茎を捲き、布で覆った手製のものである。この球はよく飛んだ>(同前)
長嶋さんは千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市)の出身です。千葉県の北部中央に位置する町で、町の北部には印旛沼が威容を讃えていました。
スポーツの語源はラテン語のデポルターレに由来すると言われています。元来は「気晴らし」や「遊び」という意味です。
プロに入ってからの長嶋さんのプレーは、サードから手のひらをチョウチョのようにひらひらさせながらの一塁送球しかり、ヘルメットを飛ばす豪快な空振りしかり、どれもが“遊び心”にみちたものでした。
その原点は、少年時代の“野球遊び”にあったと思われます。
<新聞紙を丸めて、糸でしばる。こいつを投げると、世界一の変化球投手になったような錯覚を覚える。ちょっとした回転の変化によって、胸を抉るシュートや、落ちるドロップが投げられる。シュートは、平松投手(大洋)の全盛期よりも鋭く曲がったし、ドロップは、金田投手のそれよりも落差があった。そいつをバットで叩くのである>(同前)
地元の臼井二町組合立中学校(現・佐倉市立佐倉中学)に進んだ長嶋さんは、1年生からショートのレギュラーに定着します。入学したころは“チビ”というニックネームでしたが、中学3年時には身長170センチを超えていたそうです。
高校は千葉県きっての名門・千葉県立千葉一高(現・千葉県立千葉高校)からの誘いもあるなか、地元の佐倉一高に進学します。
転機となったのは高3の6月、銚子市営球場で行なわれた練習試合です。身長177センチに達していたショートの長嶋さんは、腰高ゆえに1試合で4つもエラーをしてしまいました。次の試合でもまたエラー。
<見るに見かねた加藤哲夫監督が飛び出して「ショート長嶋をサードに、サード鈴木をショートに」と告げた。
これが運命の分かれ目。直後に三塁を抜けるかという強烈な打球を横っ飛びして好捕、体をひねって一塁へ矢のような送球。急造三塁手の思いがけないファインプレーで代名詞となる「サード長嶋」が生まれたというわけだ>(自著『野球は人生そのものだ』日本経済新聞出版社)
サード転向は、まさにケガの功名だったのです。
千葉の<無名の高校生が世に出たきっかけ>(同前)となった試合があります。甲子園出場をかけた高3の夏の南関東大会です。当時は千葉県と埼玉県の高校が4校ずつ出場し、優勝した一校に甲子園への出場権が与えられる仕組みでした。
準々決勝の相手は埼玉の強豪・熊谷高。舞台は埼玉県営大宮球場。2年前の夏には、甲子園準優勝を果たしていました。
エースは卒業後に東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)に進む福島郁夫さん。6回の第3打席、福島さんが投じた内角高めのストレートを、長嶋さんは上から叩きつけるような打ち方で、バックスクリーン中段にまで運んだのです。推定426.5フィート(130メートル)の特大ホームランでした。
試合は1対4で敗れましたが、この特大ホームランは多くのスカウトの間で話題となり、プロはもちろん、社会人野球からも誘いが相次ぎました。
プロ志望の長嶋さんは<憧れの巨人が来たことで私は有頂天になった>(同前)といいます。巨人が高校生の長嶋さんに示した契約金は60万円でした。
しかし、最後は立教大学・砂押邦信監督の「スパルタで人間をつくる」という言葉に感銘を受けた父・利さんの判断で、長嶋さんは立教大学に進むことになります。「憧れの巨人」に入団するのは、その4年後の1958年でした。
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