今年6月16日に65歳で亡くなった広島東洋カープの元エース北別府学さんは、出身校が都城農高だったため、宮崎県出身と間違われることがありましたが、実は鹿児島県曽於郡末吉町(現・曽於市)の出身です。自宅から学校まで、20数キロの道のりを自転車で通学して下半身を鍛え上げました。この“特訓”が、安定感のあるフォームをつくり上げたと言われています。
北別府さんを担当した村上(旧姓・宮川)孝雄スカウトによると、北別府さんが、わざわざ県外の農業高校を選んだのは、実家が農家だったからです。
「長男、次男は働きに出ていた。あの子(北別府)は、“オヤジがかわいそうだから、家は自分が継ぐ”と言うとりました」
実際のところ、地元の強豪・鹿児島商高を筆頭に、鹿児島実業高、鹿児島商工高(現・樟南高)からも誘いがあったようです。
人生に“たられば”は禁句ですが、もし鹿児島商に進んでいれば、1学年先輩に、1974年の広島のドラフト1位、堂園喜義さんがいました、また、鹿児島実業に進んでいれば、こちらも1学年先輩に74年の読売ジャイアンツのドラフト1位、定岡正二さんがいました。甲子園には出られたでしょうが、3年生になるまでは出場の機会が限られていたかもしれません。
村上さんが北別府さんを「(75年の)ドラフト1位で指名する」と決めたのは、3年夏の県予選の準々決勝・宮崎日大高戦です。旧知の県高野連関係者から「今日は負けるかもしれないから、最後に観といた方がいいぞ」と村上さんの元に電話が入りました。
村上さんの目の前で、北別府さんは完封勝ちを演じます。プロではカーブやシュート、スライダーを軸に技巧派として活躍した北別府さんですが、村上さんによると、当時は九州きっての本格派で、ストレートは当時150キロ前後を計測していたそうです。
しかし、甲子園には1度(71年夏)しか出場したことのない無名校ですから、先発できるピッチャーが何人もいるわけではありません。そこで相手によっては、打たせて取るピッチングで、出力をセーブしていたと言います。
宮崎日大戦の完封を聞き、準決勝の日南高戦にはプロのスカウトが大挙して押し寄せました。ところが15本ものヒットを打たれ、6点もとられてしまったのです。これで北別府さんの評価はガタ落ちし、秋のドラフトの上位指名候補からも名前が消えました。
スカウトの中でひとり評価を下げなかったのが村上さんです。どんな理由があったのでしょう。
「原因は雨です。2日間、雨で中止になり、3日目は監督が選手を都城市に待機させていた。すると、急にやることになったというんです。
都城農の選手たちは、急いで球場にやってきて、グラウンドをちょっと走ってすぐにプレーボール。北別府はキャッチボールも満足にできんかった。そんな状況下では、本来の力を発揮することはできません。打たれたとはいっても、原因がはっきりしているので、私の彼に対する評価は下がりませんでしたね」
先に北別府さんが快速球を封印したのは無名校ゆえ、スタミナを温存する必要があった、と書きました。もうひとつ、理由があります。そのことを北別府さんは自著『カープ魂 優勝するために必要なこと』(光文社)で明かしています。
<高校一年の時に初めて江川(卓)氏の投球を見た瞬間、「怪物だ」と直感した。マスコミも江川さんのことを「怪物」と報じていたが、その表現を使ったのは私が最初だと思っている(笑)>
球速では「怪物」にかなわない、と観念した北別府さんは、その後、手首の強化に励み、切れ味鋭いシュートや落差の大きいカーブに磨きをかけます。ストレートはミリ単位で操ることができました。付いたニックネームは「精密機械」。その原点は、高校時代の“江川体験”にあったのです。
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