高校時代、エースの陰に隠れ、二番手だったピッチャーがプロに入って大成することは珍しくありません。日米通算313セーブを記録した名クローザーの高津臣吾さん(現・東京ヤクルト監督)も、そのひとりです。
高津さんは広島工高時代、3年の春と夏に甲子園に出場していますが、甲子園では一度もマウンドに立ったことがありません。上田俊治さんという本格派のエースがいたためです。3年の春は準々決勝で宇都宮南高に、夏は3回戦で浦和学院に敗れました。
「打順は2番。甲子園での成績は春夏合わせて8タコ(8打数ノーヒット)。バントばかりやっていましたよ」
それが高津さんの回想です。高津さんは、元々はスリークォーターのピッチャーでした。なぜサイドハンドに変えたのでしょう。それは上田さんを意識したからだと以前、語っていました。
<「すごく平凡なピッチャーだったので、『何か特徴を出せ』と言われて、アンダースローに変えました。でも、持ち球は真っすぐと曲がらないカーブだけ。ただ横から投げているというピッチャーでした。特別コントロールがいいってわけでもなかった。
上田が本格派だったので、同じことをやっても追いつけないと判断したのかもしれない。同じ上手投げで差が開くより、横から投げて特徴を出したかった。でも、どこかで諦めてた部分もあったのかもしれないですね。諦めたか、割り切ったか、開き直ったか。その頃に思っていたのは、2番手に入りたい、その座を守りたいということ。横投げでなければもうダメだ、これしかない、という思いはあったと思う」>(自著『ナンバー2の男』ぴあ)
しかし、腕を下げたことが後々、成功の要因になるわけですから、人生、何が幸いするのかわかりません。
高校卒業後、高津さんは東都大学リーグの亜細亜大学に進学しますが、ここにも同期に大エースがいました。東都リーグの通算28勝、歴代最多(当時)の394奪三振をあげたサウスポーの小池秀郎さん(近鉄-中日-近鉄-東北楽天)です。1990年のドラフト会議では史上最多タイとなる8球団から指名を受けました(ロッテに指名されるも入団拒否。社会人野球を経て93年、近鉄に入団)。
小池さんのピッチングを初めて目にした時の驚きを、高津さんは私に、こう語りました。
「小池は背は高くないんです。170センチちょっとくらい。ところが体に核があるっていうのか、グリッとした感じで強いんです。
特別スピードがあったわけではありませんが、ボールに切れがあり、しかも低めに決まる。本当に糸を引くようなボールでした。いつもブルペンで投げていて“こりゃスゲェ!”と思いましたよ」
高校時代の上田さん、大学時代の小池さん。普通のピッチャーなら、悄然とするところですが、あの手この手で生き残ろうとするのが“高津流”です。高校時代のフォーム変更、プロに入ってからの遅いボールの有効な使い方など、高津さんは節目節目で“変身”を図っています。
この思いっ切りの良さは、いったいどこからくるのでしょう。ヤクルト時代の先輩である橋上秀樹さんから、こんなエピソードを聞いたことがあります。
「ヤクルトが15年ぶりに日本一になった1993年のオフ。私たちはハワイへ優勝旅行に行きました。あるところでバンジージャンプをやっており、私は選手5、6人と“すごいなぁ”なんて言いながら見ていた。
そこで私は冗談で“誰かバンジージャンプをやるヤツがいたら、みんなでおカネを出してやるぞ”と言いました。確か、その中には古田もいましたが、普段は物怖じしない彼でさえも手を挙げなかった。
と、その時です。“はーい!”と言って手を挙げた選手がいた。それが高津でした。正直、ケガでもしたらどうしようかとこちらはびくびくしていたのですが、高津はあっさりとやりとげ、“楽しかったですよ”とニコニコしながら戻ってきました」
天性のポジティブ思考といえば、それまでですが、高校時代からの“二番手人生”が、自己改革の原動力になったのだとすれば、確かに高校野球は“教育の一環”です。
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