巨人の打撃投手時代、“清原和博の恋人”と呼ばれた元プロ野球選手がいます。ロッテに9年間在籍し、通算2勝2敗の成績を残している田子譲治さんです。鳥取西のエースとして快刀乱麻のピッチングを演じた甲子園での雄姿は、今も記憶に残っています。
田子さんが鳥取西のエースとして甲子園に出場したのは1981年の夏です。田子さんは3年生でした。
1回戦の相手は青森代表の東奥義塾でした。当時、東北のレベルは高くなく、下馬評では田子さん擁する鳥取西有利との見方が支配的でしたが、東奥義塾は大会随一のチーム打率を誇っており、山陰を代表する好投手である田子さんも苦戦を免れないように思われました。
田子さんはどう思っていたのでしょう。
「鳥取西は名門とはいえ、僕らは田舎の学校。目標である甲子園に出られたのだから1回戦で負けてもいいと思っていました」
初回、田子さんは先頭打者にいきなりヒットを打たれます。二遊間に飛んだ打球がショートの前でイレギュラーし、バウンドが変わるという不運に見舞われます。
すぐさま盗塁を決められ、犠牲バントで1死三塁。マウンド上の田子さんは「さすがに甲子園に出てくるチームは違う。2点でも3点でもどうぞ」という気持ちだったといいます。
このリラックスムードが功を奏したのか、田子さんは3番、4番を連続三振に切ってとり、無失点で切り抜けました。
2回以降、田子さんはエンジンを全開にします。ストレートは走り、カーブは鋭く落ちました。
終わってみれば5対0。ヒットは初回に先頭打者に打たれた、あの1本だけでした。勝負事に“れば・たら”は禁句ですが、イレギュラーバウンドさえしなければ、夏の甲子園史上初の完全試合……ということもあり得たのです。仮にエラーだったとしてもノーヒットノーランは達成していたことになります。
三振は7回を除く毎回の16。スタンドに陣取っていたプロ野球のスカウトが二重丸を付けたのは言うまでもありません。
「自分で自分の投げるボールが速いと思ったのは、あの時が初めてでした」
こう前置きして、準完全試合の快挙を田子さんは振り返ります。
「甲子園に来てから、練習を抑え気味にしたことで疲労が抜けたんです。体重も3キロくらい増えました。これにより体重が乗り、力が指先にまで伝わるようになった。これまでなら、後半のどこかでヘロヘロになっていたのですが、あの時は1回もそういうことがありませんでした」
続く2回戦、鳥取西は優勝候補の一角である早稲田実業(東東京)と対戦します。エースは1年夏に準優勝投手になっている2年生の荒木大輔さんです。0対5で敗れましたが、田子さんの記憶によると「7回2死まで内野安打を2本打たれただけ」という内容。1回戦、2回戦の好投が評価され、その年のドラフト会議ではロッテから2位指名を受け、入団しました。
しかしプロではヒジの故障などもあり、わずか2勝に終わりました。最も調子が良かったのは3年目の合同自主トレだったそうです。ブルペンで投げていると稲尾和久監督と落合博満選手が顔を出し、「こりゃスゴイ!」と驚きの声を発したそうです。しかし、長続きはしませんでした。
プロ5年目の86年、西武に大物ルーキーが入団します。甲子園を沸かせた清原和博さんです。忘れもしない10月7日、川崎球場です。「こんな高校を出たばかりのヤツに打たれるわけにはいかない」。そう意気込んで投げたカーブをレフトポール上空に運ばれてしまいました。「肩口から中に入るところを、泳ぎながらバットの先で持っていかれてしまった。もう少し距離が出ていたら、ファウルになっていたんでしょうけど……」
これがシーズン31本目。ルーキー最多本塁打タイ記録(高卒ルーキーとして最多)達成に貢献してしまったのです。
現役引退後、巨人で打撃投手の職を得、清原さんから「僕に投げてくれませんか」と“プロポーズ”されるのですから、人生はわからないものです。「清原は遅いボールを前で払いたいタイプ。おそらく僕のカーブを打つ感覚が良かったのでしょう」と田子さん。父親の葬儀には清原さんから弔花が届いたそうです。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。