甲子園における完全試合は、春に二度(1978年/松本稔/前橋高・群馬、94年/中野真博/金沢高・石川)あるだけで、夏はまだ一度もありません。最も近づいたのは82年8月8日、1回戦で木造(青森)相手にノーヒットノーランを達成した佐賀商の新谷博投手です。
剛腕・畠山準投手の力投と“やまびこ打線”の破壊力で池田(徳島)が夏初制覇を遂げたこの年、全国49代表のうち地方大会で最高のチーム打率を誇ったのが佐賀商、2番目が木造でした。
1回表、木造の先頭打者・兼平利仁選手の打球は快音を発してセンターへ。佐賀商のセンター古賀和議選手のグラブに収まりました。新谷投手は内心「いいスイングするなァ」と思ったそうです。これが“完全試合未遂劇”の始まりでした。
その裏、佐賀商は先制のチャンスを迎えます。1死二塁のチャンスで3番キャッチャー田中孝尚選手がレフトスタンドに2ランを叩き込んだのです。さらに1点を追加し、3対0。第1号を放った田中選手に新谷投手は、こう声をかけたそうです。「これで(スポーツ紙の)一面だなァ」。
新谷投手はイニングを重ねるごとにペースを上げていきました。2回2死後、4者連続三振。しかし、「アウトの中身については興味がなかった」と言います。
「僕はキャッチャーの構えていたところに、どんどん投げ込んでいっただけ。配球は全てキャッチャー任せ。それが板谷英隆監督の方針でもありました」
6回が終わり7対0。勝負の行方は、ほぼ見えていました。スタンドがざわつき始めたのは、7回に入る頃です。
「1アウトとるごとに、ざわざわしてきましたね。でも僕は“あれ、何でみんな騒いでるの?”という感じ。完全試合に対する意識なんて全くありませんでしたから」
夏の大会で完全試合は一度もないのですが、新谷投手は、そのことを知りませんでした。
「というのも甲子園というのはすごい大会で、これまで偉大なピッチャーが何人もいて、とっくに完全試合は達成されているものとばかり思っていた。ノーヒットノーランなんてしょっちゅう出ていると……。もちろん僕の勝手なイメージですけど」
大歓声の中、新谷投手は9回表のマウンドに上がりました。7番・川内福一選手をショートゴロ、8番・木村武史選手を三振に切ってとり、いよいよ大記録まで、あとひとり。ここで木造ベンチは9番・大沢丈徳投手の代打に1年生の世永幸仁選手を送ります。
この時点でも、新谷投手に緊張はなかったそうです。
「正直言って、打たれる気は全くしませんでした。“あぁ、あとひとりで終わるんだなァ……”。その以外のことは何も考えてなかったですね」
2ボール1ストライクからの4球目、田中捕手はミットを、やや内角寄りに構えました。運命の94球目、あろうことかシュート回転したストレートは世永選手の右ヒジに当たってしまいました。夏の甲子園史上初の完全試合が消えた瞬間でした。
悔しさを露わにしたのが田中捕手です。内角にミットを構えたことを悔いたのかもしれません。
「当たった瞬間も僕は冷静でしたよ。キャッチャーを見て“何で、そんなに悔しがっているの?”って思いましたもん」
気を取り直した新谷投手、最初の打席で快音を響かせた兼平選手をセカンドゴロに仕留め、夏の大会19人目(当時)のノーヒットノーランを達成したのです。
新谷投手が、あとひとりで夏の大会史上初の完全試合達成だったことを知ったのは帰りのバスに乗り込む時でした。
「新聞記者の人に言われたんです。“史上初めてだったのに”って。さすがに、その時は悔しかった。それを最初に知ってたら、狙ってましたよ。9回、死球の場面は多分アウトコースに投げていました。本当にパーフェクトを狙ってるんだったら、その方が確実でしょう。でも逆に考えれば、何も知らなかったからこそ、あそこまで行けたのかもしれない。(完全試合を)意識していたら、おそらく6回か7回あたりで、力んでフォアボールを出していたかもしれませんね」
後日談があります。完全試合を達成した暁には記念のボールは甲子園球場に展示されることになっていたそうです。それが証拠に新谷投手は9回表が始まる前、運営側から球審への「ボールだけは確認しろ」という指示を聞いています。「騒ぎの中、ボールがどっかへ行っちゃったら大変なことになりますからね」。その意味では、“あとひとり”の場面、最もプレッシャーを受けていたのは広沢球審だったかもしれません。
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