高校野球のドラマは甲子園だけではありません。地方大会にもあります。今回は不思議な運命の糸に操られた、2人の球児の物語を紹介しましょう。
秋山幸二さん、伊東勤さんといえば、西武の黄金期を支えた名選手です。秋山さんは10回のリーグ優勝と8回の日本一、伊東さんは14回のリーグ優勝と8回の日本一に貢献しています。
ともに熊本県の出身であることは西武ファンならずとも、広く知られています。伊東さんは県内きっての強豪である熊本工高、秋山さんは進学校・八代高の出身です。
秋山さんは入学当初、野球部に所属していませんでした。本人によると、「普通に受験勉強をしていた」そうです。
それがなぜ野球部に?
「ある日、仲間に誘われて野球部の練習を見に行きました。まあ中学時代、一応サードと外野を守っていた経験はありましたから。すると、いきなり“秋山、オマエ背が高いからピッチャーをやれ!”と。もう“エーッ”という感じですよ。なにしろ当時は野球部といっても7人くらいしかいなかったから、誰かがピッチャーをやらないと試合ができない。それで必死になってピッチャーの“勉強”を始めたんです」
秋山さんといえば、日本シリーズでホームランを打った直後、ホームベース付近でバク宙を披露したほどの運動神経の持ち主です。エースになるのに時間はかかりませんでした。
1980年の夏、「エースで4番」の秋山さんを擁する八代は熊本県大会の決勝に進出しました。勝てば春夏通じて初めての甲子園出場です。
決勝の相手は県内有数の古豪・熊本工。強肩強打のキャッチャー伊東さんがチームを牽引していました。ともに最後の夏です。
スコアは8回が終わり4対3で八代がリード。甲子園の切符は手を伸ばせば、すぐのところにありました。
だが、熊本工も粘ります。9回2死三塁の場面で伊東さんに打席が回ってきました。前の打席で伊東さんは秋山さんから2ランホームランを放っていました。
ここで八代バッテリーは敬遠策をとります。逆転の走者を出してでも勝負を避けたかったわけですから、伊東さんの強打がしのばれます。
伊東さんは「強肩強打」に加え「俊足」でもありました。すぐさま二盗を決め、マウンド上の秋山さんにプレッシャーをかけます。
2死二、三塁で打席に立ったのは4番の石田順也さん。5球目、秋山さんが投じたカーブにくらいつきます。打球はワンバウンドして秋山さんの頭上を越え、2人のランナーが還りました。劇的な逆転勝ちで、熊本工は7回目となる夏の甲子園出場を決めたのです。
この年の秋、秋山さんはドラフト外で西武に入団します。「なぜ秋山さんほどの選手がドラフト外で?」と疑問に思った方もいたでしょう。
それについて、本人は以前、私にこう明かしました。
「夏の大会が終わったら受験勉強。夏休みは課外授業を受けながら図書館にこもっていました。自力で大学に行くつもりだったから、大学野球部のセレクションも受けなかった。でも結局は(成績が)追いつけなかった。一時は予備校に行こうかと考えたんですが、家にそんなカネはない。それで九州のある大学に僕の(野球で活躍した)新聞記事を送ったらOKだと。獲ってくれるというんです。
それで特待生の試験を受け、寮に泊まった。そこで考えたんです。“勉強しながら野球をやるというんじゃ、高校の3年間と一緒だよなぁ。よし、一発プロで勝負してみようか”って……」
一方の伊東さんは、3年終了後に埼玉県の所沢高に転校しました。定時制課程だったため、卒業には4年かかります。それゆえ西武の球団職員をしながら、おひざ元の高校に通ったのです。そして翌年のドラフトで、晴れて西武から1位指名を受け、秋山さんのチームメイトとなったのです。ライバルから同僚へ----。熊本出身の2人の球児の存在なくして、西武の黄金期はやってこなかったかもしれません。
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