KK(桑田真澄と清原和博)コンビを擁したPL学園(大阪)は1983年夏から85年夏にかけて、甲子園で2度の全国優勝(83年夏と85年夏)と2度の準優勝(84年春と夏)を果たしています。決勝に進出できなかったのは85年春の1度だけ。最強チームの前に立ちはだかったのは“土佐の怪腕”でした。
「初戦、東海大浦安(千葉)とPL学園だけは当たりたくないな。そんな思いでした」
そう振り返るのは伊野商(高知)の2年生捕手・柳野浩一さんです。
83年の夏、2人の1年生の活躍で甲子園を制し、84年の春夏も連続して決勝にコマを進めているPL学園と戦いたくないというのは、よくわかります。東海大浦安はなぜ?
「浦安には佐久間浩一(東海大ー巨人)という左の大砲がいたんです。当時は“東の佐久間、西の清原”と言われていた。優勝候補の一角に名を連ねていました」
だが柳野さんたちの願いはかなわず、伊野商は1回戦で東海大浦安と対戦することになってしまったのです。
「甲子園では“割り当て練習”があるのですが、僕たちの前が浦安。僕たちの見ている前で、佐久間選手は1球目をいきなりバックスクリーンに運び去った。山中直人監督が“こりゃ見せられん。もう帰るぞ”と言ったほど衝撃的な一発でした」
甲子園初出場の伊野商には、のちに西武などで活躍する渡辺智男さんがいました。「エースで4番」。見方によればワンマンチームでした。
「僕が1学年上の智男さんのボールを初めて受けた時は、まだ6分か7分の力で投げていました。右ヒジにネズミ(遊離軟骨)があったため、智男さんは中学で1度、ピッチャーをやめていた。それもあって本気では投げていませんでしたね」
球種は150キロ近いストレートとフォーク、カーブの3種類。しかし、投げるボールはほとんど真っすぐだったそうです。
渡辺さんは全国的には無名でしたが、四国球界では名が通っていました。大会前、池田(徳島)の名将・蔦文也監督が「渡辺君はそうは打てんよ」と甲子園での活躍を“予言”していました。
東海大浦安戦、結論から述べれば伊野商の完勝でした。5対1。強打の浦安を6安打に封じたピッチング以上に光ったのが渡辺さんのバッティングでした。初回、いきなりバックスクリーンに2ランを見舞ったのです。投げても打っても超高校級でした。
勢いに乗る伊野商は2回戦で鹿児島商工(5対3)、3回戦で西条(愛媛)を5対0で下し、準決勝でPL学園と対戦します。
柳野さんが振り返ります。
「この試合だけは宿舎にいる時から智男さんの目の色が違っていました。口には出しませんけど、“清原、何するものぞ”との思いがあったんだと思います」
清原さんとは4度対決し、3三振1四球。うなりを生じる快速球の前に清原さんは手も足も出ませんでした。
再び柳野さん。
「最後の4打席目だけ、初球をカーブから入ったんです。この試合、カーブを使ったのはこの1球だけ。清原さんは空振りでした。このあと、真っすぐを2つ続けて三球三振。智男さん、清原さんに対してだけは目の色を変えて投げていましたね」
最強PLを3対1で下した伊野商は決勝で帝京を4対0で破り、初出場初優勝を果たしたのです。
実は決勝戦、渡辺さんはお腹をこわし、調子はあまりよくなかったそうです。中盤から持ち直した渡辺さん、6回、打席に入る前の柳野さんにこう告げたそうです。「浩一、だいぶなおったき。オレまで回せ。オレ絶対にホームラン打つき(土佐弁で打ってやる)」。ヒットで出塁した9番打者の柳野さん、3番打者のレフト前ヒットで先制のホームを踏みました。
ここで打席に入ったのが渡辺さん。ランナーをひとり置いて小林昭則さん(筑波大-ロッテ)のカーブをライトスタンドに放り込んだのです。これで3対0。勝負を決める一発でした。
追伸 柳野さんは高校卒業後、社会人野球の新日鉄堺に入ります。同期に剛腕がいました。のちのメジャーリーガー野茂英雄さんです。“ミットの記憶”について聞きました。
「野茂のストレートは文字通りズドーン。そしてフォークはスポーン。一方、智男さんのストレートは地の底から浮かび上がってきた。ヒジのネズミさえなかったら高校からプロ入りし、とんでもないピッチャーになっていたと思います」
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