“小さな大打者”と言えば、通算2173安打の若松勉さん(ヤクルトアトムズ-ヤクルトスワローズ)の代名詞です。NPBでの通算打率は3割1分9厘。これはNPBで6000回以上打席に立った選手の中では、歴代最高打率です。
若松さんの身長は168センチですが、実際にはもう少し低かったというのが定説です。現役時代の選手名鑑には「166センチ」とあります。
子どもの頃から野球とスキーの“二刀流”。運動神経には自信のあった若松さんですが、地元・留萌中の野球部に入部するまでには一苦労あったそうです。
「入部する前、一列に並ばされた。当時、留萌中では背の低い子どもは野球部に入れなかったんです。ところが同じ国鉄官舎に住んでいた先輩が“オマエ、いいから、こっち来いよ”といって僕を(背の高い人の中に)引き入れてくれた。もし、あの先輩がいなかったら、僕は野球を続けていなかったかもしれない……」
北海道の高校野球といえば、名門・北海高です。再び若松さん。
「留萌管内の北海高のOBがウチの中学にピッチャーを探しにきていた。しかしいいピッチャーがおらず“野手だったら小柄だけど足が速くていいのがいるよ”となったらしい。
それで3年の冬休みに、先生と一緒に北海高の練習を見に行った。真冬でもランニングやキャッチボールをやるなど、練習はハードに見えました。しかし、できたらこんな学校でやってみたいな、という思いが芽生えてきたのも事実です」
入学し2年の春からレギュラーになった若松さん、南北海道大会を勝ち抜き、夏の甲子園出場を決めました。しかし、気管支炎にかかってしまい、甲子園の土を踏むことはできませんでした。
気管支炎の次は骨折です。3年夏の道予選を前にして、練習中、左足首を骨折してしまいました。1965年のことです。
決勝の相手は美唄工。骨折が癒えたばかりの若松さんは痛みの残る左足を保護するため、この時だけは運動靴を履きました。
だが、甲子園への夢が痛みを忘れさせました。2対1と1点リードの場面で、なんとホームスチールを成功させたのです。これで3対1。最終的には4対1で美唄工に勝ち、甲子園出場を決めました。
この時の思いを、若松さんは自著『背番号1の打撃論』(ベースボール・マガジン社新書)で、こう述べています。
<しかし、全力疾走もできない足で、よくホームスチールをしたものだと思う。我ながら後先を考えない無謀なプレーだった。言い換えれば、それだけ甲子園に出たいという気持ちが強かったということである。前年、気管支炎で直前に出場を逃した悔しさもあった>
甲子園での初戦の相手は佐賀商。若松さんは3番ライトで出場し、4打数1安打。試合は3対8で敗れました。だが、若松さんは4盗塁を決め、足でスタンドを沸かせました。
若松さんによると、高校生離れしたスピードと脚力は、ノルディックスキーと陸上の800メートルで培ったものだったそうです。その意味で、少年時代の“二刀流”、いや“三刀流”は、未来への先行投資だったと言っていいでしょう。
北海高を卒業した若松さん、社会人野球の電電北海道を経て、1971年、ドラフト3位でヤクルトに入団します。
若松さんの入団当時の打撃コーチ・中西太さんから、こんな話を聞いたことがあります。
「長所は何かと聞くと“スキーが得意だ”と。ほう、これはモノになるなと思いましたよ。だってスキー選手って日頃から内転筋を鍛えるトレーニングを積んでいるでしょう。オマエ、この力を利用しない手はないぞと。それから毎日のように内転筋を鍛えるトレーニングをやらせましたよ」入団2年目の72年に打率3割2分9厘で初の首位打者。7年目の77年には自己最高打率の3割5分8厘(規定打席以上)で2度目の首位打者。日本のプロ野球において、“安打製造機”という異名が、これほど似合う人はいませんでした。
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