1960年代後半から80年代にかけて、セ・リーグを舞台に、好勝負を繰り広げたピッチャーがいます。大洋ホエールズのエース平松政次さんとヤクルトスワローズ(入団時はサンケイアトムズ)のエース松岡弘さんです。平松さんは通算201勝、松岡さんは通算191勝。ふたり合わせて392勝です。ピッチャーにとって最高の栄誉とされる沢村賞にも、それぞれ1度ずつ(平松さん=70年、松岡さん=78年)輝いています。同学年のこの2人が、甲子園出場をかけて戦ったのが65年夏の岡山県大会です。松岡さんに話を聞きました。
――平松さんがエースの岡山東商高は同年春のセンバツで優勝しています。この大会で平松さんは39イニング連続無失点の大会新記録を樹立しました。松岡さんがエースの倉敷商高が甲子園に出るためには、平松さん擁する岡山東商高を倒さなければなりません。
松岡 そりゃそうですよ。しかし、センバツで優勝した平松は、もう全国区のスターだったからね。ライバルというよりは憧れに近い存在でしたよ。岡山東商のやや黄色がかったユニホームは輝いて見えました。
――その岡山東商と対戦したのは何回戦ですか?
松岡 準決勝です。岡山県営球場で試合をしたのですが、3対3で日没引き分けとなり、翌日に再試合をしました。ナイター設備がまだなかったんでしょうね。
本音を言えば、僕は、もう翌日は投げたくなかった。腰痛がひどくて、とてもじゃないが投げられるような状態じゃなかった。結局、2対5で負けましたが、悔しさはなかったね。2年の秋に野手からピッチャーに転向して、よくここまできたな、と思いましたよ。
――元々は野手だった?
松岡 そうです。主にファーストを守っていました。2年の頃はベンチですよ。だってウチには大エースがいましたから。
――1学年上の星野仙一さん。
松岡 そうです。もう、どの試合もひとりで投げていましたから。僕がエースになったのは2年の秋、新チームになってからです。
――星野さんは卒業後、明治大に進学しますが、よく母校に指導にきたそうですね。
松岡 もう厳しいのなんの。デカい声で僕らに発破をかけるんです。「そげんことしよったら、おえん」「オマエら、何しよんな、コラ」。岡山弁で“おえん”は“ダメだ”ということ。声もデカいし、態度もデカい(笑)。監督も一目置いていましたよ。
――平松さんといえば、代名詞は“カミソリシュート”ですが、高校時代から投げていましたか?
松岡 いや、高校時代は真っすぐとカーブだけだった。いや、あのシュートは社会人(日本石油)時代も投げていなかったはず。プロに入ってからマスターしたんだと思います。
――プロで初めて“カミソリシュート”に遭遇した時の印象は?
松岡 彼は重心が低く、球離れが遅いでしょう。僕ら右バッターには浮いてくるように見えるんです。カミソリシュートとはよく言ったもので、顔の近くにきたらヒゲを剃られるんじゃないかと思いました。
ある時、平松に“シュートの投げ方を教えてくれ”と頼むと“自分で覚えろ”と返されました。まぁ無理もありません。体付きもフォームも違うわけだから、教わったところで投げられるわけじゃない。あれは彼にしか投げられない種類のボールでした。
――片や大洋のエース、片やヤクルトのエース。プロに入ってからの対抗心は?
松岡 そりゃありましたよ。でも僕には打たれた記憶しか残っていない。彼はバッティングもよかったから。川崎球場での開幕戦でライトにホームランを打たれたこともあります。僕が打った記憶? それは全くないね。まぁ今思えば、高校時代から“平松に追い付け、追い越せ”の気持ちでやってきた野球人生でしたね。
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