高校野球史上最高のヒーローは誰か!? 1969年夏の甲子園決勝で優勝した松山商高(愛媛)相手に2日間で27イニングを投げ(0対0で延長18回引き分け、再試合は2対4)、“北国のヒーロー”と呼ばれた三沢高(青森)の太田幸司さんにとどめを刺します。その太田さん、大会後のブラジル遠征で、高校選抜チーム、今でいう高校日本代表のエースとして完全試合を達成したことは、あまり知られていません。
太田さんが完全試合を達成したのは、9月6日(現地時間)、舞台はパラナ州マリンガでした。相手は高校生や社会人もいるマリンガの混成チーム。レギュラー全員が日系人でした。
監督は松山商の一色俊作さん。松山商からはピッチャーの井上明さん、キャッチャーの大森光生さん、内野手の樋野和寿さん、谷岡潔さんの4人がメンバーに名を連ねました。敗れた三沢からも太田さん、内野手の桃井久男さん、八重沢憲一さんの3人がメンバー入りしました。
この選抜チームのメンバー選考にあたっては、当初、公平を期すため「1チーム2人以内」という枠が設けられていました。ところが延長18回再試合が世間の大きな注目を集めたため、急遽、基準を見直し、松山商と三沢を中心にしたメンバー構成に改められたそうです。
その背景について、主催者である朝日新聞は、<「特例にしても、1チームから4人も選ぶのはどうか」という意見もあったが両チームの試合ぶりはその声をかき消した>と報じています。
話を完全試合に戻しましょう。この試合は遠征7戦目。太田さんは松山商の大森さんとバッテリーを組みました。後に明治大、社会人野球のティアック、三菱重工広島で活躍する大森さんは172センチと小柄でしたが、フットワークがよくリードも巧みでした。
炎天下の甲子園で942球も投げたため、疲労が心配された太田さんですが、初めての海外ということもあり、気分は晴れやかだったそうです。
問題はデコボコのグラウンドとブラジル製の粗末なボールです。赤土のグラウンドは整備不十分で、ところどころに雑草も生えていました。
ボールについては、ひとつひとつが不揃いなため、ツメや指への負担が心配されました。実際、太田さんは、ブラジル製のボールが原因で、帰国後、ヒジ痛に悩まされたそうです。
いくら相手が弱いとはいっても、そうした環境下で完全試合を達成するのは、至難の業です。
完全試合達成への最大の危機は8回、1死から代打で起用された選手が放った左中間への大飛球でした。録画で確認することができないため、どれだけ難易度の高い打球だったか判断することはできませんが、センターを守っていたのが、中央大を経て中日ドラゴンズに進む俊足の藤波行雄さん(静岡商高)だったことも日本にとっては幸いしたようです。
終わってみればスコアは15対0。球数114。アウトの内訳は内野ゴロ7、内野フライ4、外野フライ2、三振14。いつだったかこの試合の感想を問うと「フォアボールがひとつもないのが僕らしくないですね」と太田さんは笑っていました。
そして、こんな裏話も。
「あんまり野球の話はせんかったけど、楽しかったね。旅の恥はかき捨てじゃないけど、皆、地元の女の子に声をかけたりね。クソ真面目なのはウチ(三沢)の選手だけ。こりゃ勝てんわ、と思いました(笑)。確かブラジルからペルー、ペルーからロサンゼルスに寄って帰国したら、もう新学期が始まっていました。日本にいる間、ずっと偉い人やファンに監視されていたような気分になっていたので、この遠征は高校時代のとてもいい思い出ですよ」
地球の裏側への旅は、17歳の太田さんにとって実り多きものでした。
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