今にして思えば「異色」の球児です。プロレスのリングでチャンピオンになり“東洋の巨人”の異名をほしいままにしたジャイアント馬場(本名・馬場正平)さんは、三条実業高(新潟)時代、甲子園を目指した剛腕投手でした。
馬場さんの自著『ジャイアント馬場 16文キックの伝説』(東京新聞)によると、高校1年時には身長が6尺3寸(約190センチ)もあったそうです。今でこそ高校野球に190センチ台のピッチャーはゴロゴロいますが、当時としては“雲を衝くばかりの大男”です。
馬場さんは1938年1月23日生まれですから、1937年生まれの選手と同級生になります。同級生でプロ入りし、大活躍したピッチャーと言えば“鉄腕”と呼ばれ、プロで通算276勝をあげた稲尾和久さん(37年6月10日生まれ)とNPB2位となる通算350勝をあげた米田哲也さん(38年3月3日生まれ)が双璧でしょう。さて身長はと言うと稲尾さん、米田さんともに180センチ。2人とも「長身右腕」と記述されています。
2年生ながら「エースで4番」の馬場さん擁する三条実業高は、54年夏の県予選の優勝候補にあげられていました。ところが中越地区大会の1回戦でノーマークの長岡工高に敗れてしまったのです。試合内容については以下の通りです。
<互いに点が取れず、ゼロ対ゼロのまま九回裏まできました。この回を抑えれば延長戦です。簡単にツーアウトを取ったんですが、三塁打を打たれ、二死ランナー三塁となりました。
次のバッターにも速球を投げると、打球はやや詰まった平凡なセカンドゴロになったんですね。それをセカンドが捕って、硬くなっていたんでしょう、少しファンブルしたんですが、とにかく一塁にほうったんです。
走って来たバッターはまだ一塁の二メートルも手前にいました。当然アウトだと思いましたよ。さあ、延長戦だ、とね。
ところが一塁塁審の両手が広がってセーフ。三塁ランナーはツーアウトだから、もちろん本塁を駆け抜けていて、そのままサヨナラ負けです。
そりゃないだろう、とみんなで審判に抗議しましたよ。でも校長先生が「高校生は抗議をしちゃいかん」と言うんですね。それで負けになりました>(同前)
馬場さんにとっては、不完全燃焼の夏でした。
果たして、高校時代、馬場さんはどんなボールを投げていたのでしょう。
結局、馬場さんは高校を2年で中退し、巨人に入団します。二軍でバッテリーを組んだ加藤克巳さんから、こんな話を聞いたことがあります。
「重いボールです。ボールがすっぽり掌におさまったんだから。しかも角度がついているからミットにズシンときましたね。変化球は大きなカーブとシュート。シュートはナチュラル気味で、ちょっと右バッターの内角に食い込む程度でした。コントロールもよく、まず二軍で打たれることはなかった。二軍のピッチャーというと、コントロールが悪く、ミットを構えていてもそこに投げられない者がほとんどなんです。中にはあっちこっちにボールが散ってゲームにならない者もいる。馬場にはそれがなかったのでキャッチャーとしては楽でしたよ」
新潟を出る際、「必ずオレは巨人のエースになる」と誓った馬場さんですが、その夢は果たせませんでした。
しかし、人生万事塞翁が馬です。プロレスラーに転身した馬場さんは、日本人で初めてNWA世界ヘビー級チャンピオンになるなど大成功を収めます。
代名詞とも言える得意技の16文キックは、軸足がしっかりしていないと威力は半減します。愛弟子の渕正信さんが「まるでマットに根が生えているようだった」と驚いた強靭な右足は、巨人時代、多摩川の土手の“急坂上がり”で鍛えられたものでした。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。