巨人や中日などで名内野手として活躍した川相昌弘さんは、岡山南高時代、ピッチャーとして1981年の夏と82年の春、2度甲子園に出場しています。
優勝候補の早稲田実業(東京)と対戦したのは82年春の2回戦です。早実のエースは1年夏からここまで4季連続で甲子園に出場している荒木大輔さん。1年の夏には準優勝投手に輝いています。
同い年ながら、川相さんの目に映る荒木さんは「アイドル」そのものでした。「何が荒木大輔じゃ」との思いでぶつかっていったものの、「ひょいとかわされてしまった」と苦笑いを浮かべていました。
結果は0対3で完封負け。自らはノーヒットに終わった川相さんですが、荒木さんにはライト前とサード強襲の2本のヒットを打たれたそうです。
56歳になった川相さん、荒木さんの印象をこう語ります。
「正直言って、“速い!”とか“スゴイ!”という印象ではありませんでした。“巧い”という感じかな。既に甲子園に3回出場しており、甲子園のストライクゾーンを知り尽くしている、という印象でした。
僕に対してはアウトコースの真っすぐでストライクをとり、カーブも混ぜてきました。シュート回転のボールもあり、打ったら詰まったセカンドゴロでした。
とにかくコンビネーションがいいんです。ボールの操り方が巧いというか……。僕らの世代のピッチャーとしては完成していましたね」
2回戦で岡山南を下した早実ですが、準々決勝で三浦将明投手擁する横浜商高(神奈川)に1対3で破れてしまいます。荒木さんは甲子園に5度出場しながら、結局、一度も頂点に立つことはできませんでした。
その年のドラフトで荒木さんは巨人とヤクルトから1位指名を受け、抽選の結果、当たりくじを引き当てたヤクルトに入団します。一方の川相さんは、近鉄、ヤクルト、巨人の3球団から4位で指名され、抽選の結果、巨人に入団します。
抽選の結果次第では巨人かヤクルトで同僚になっていた可能性もあるわけですから、運命とはわからないものです。
プロ入りと同時に川相さんは内野手に転向します。本人もピッチャーとしては限界を感じており、内野手転向に異存はなかったそうです。
年俸は240万円。道具代を天引きされると、手取りは月10万円弱でした。以前、川相さんから、こんな話を聞きました。
「休みのたびに行く場所は近所のダイエーでした。そこに家電製品や洋服を買いに行っていたんです。高校時代はジャージでしたから服も持っていなかった。プロに入る時に初めてスーツを買ってもらって、それ一着で東京に来ましたから。とにかくデートに来ていく服がない(笑)。嫁さんと高校の時に初デートしたんですが、岡山市民会館に岩崎宏美のコンサートに行ったんです。ジャージに坊主頭で。8月だったからすこし髪は伸びていたかもしれない(笑)」
----アッハッハ。ジャージ姿でコンサートですか。でも、東京と岡山だったら遠距離恋愛ということでデートするのも大変だったのでは?
「デートは月に1回くらいでしたね。彼女が岡山からの最終列車で11時50分くらいに東京駅に着くから、それを迎えに行きました。後楽園の試合が終わってから一度、寮に戻って着替えるんですが、その頃にはタカキューで買った服が増えていたんですよ(笑)。寮長をごまかして、ご飯も食べずにタクシーに飛び乗って東京駅に行きました。でも10万円もない給料だと新宿へ行ってご飯を食べるくらいしかできませんでした」
この話を聞いた時、大げさではなく涙が出そうになりました。多摩川の2軍グラウンドからはい上がった川相さんは入団7年目でレギュラーポジションを獲得し、ショートでゴールデングラブ賞を6度も受賞したことは周知の通りです。そしてコツン、コロコロ。積み重ねた533個という犠牲バントの数はアンタッチャブルな“世界記録”です。
思えば川相さんの“雑草伝説”のプロローグは、“アイドル球児”の荒木さんと対戦した高校3年の春だったのかもしれません。
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