甲子園史上、「怪物」の異名をとった選手は何人かいますが、本当の怪物は作新学院(栃木)の江川卓さんひとりだったのではないでしょうか。「昭和の怪物」の最後の夏をライバルとともに振り返ります。
3年生の春(1973年)に初めて甲子園にやってきた江川さんは、準決勝で広島商に敗れましたが、4試合で大会史上最多となる60三振を奪いました。この記録は未だに破られていません。
センバツの雪辱を果たすべく、江川さん擁する作新学院は夏にも甲子園に姿を現しました。初戦の柳川商(福岡)戦は延長15回にまでもつれ込み、かろうじて2対1でサヨナラ勝ちを収めました。
2回戦の相手は関東の強豪・銚子商(千葉)です。関東の強豪といっても、江川・作新には一度も勝ったことがありませんでした。江川さんが2年生の時の秋の関東大会では三振を23個もとられ、1安打完封負けをくらっています。銚子商の2年生エース土屋正勝さんは2回戦の相手が作新学院と決まったとき、「ちょっと早過ぎるんじゃないの」と思ったそうです。「江川さん相手に勝てるわけがない。勝てないまでも負けないためには18回を0点で抑えるしかない」。そんな悲壮な覚悟でマウンドに立ったそうです。
実は土屋さん、江川・作新の初戦を通路から見ていました。試合が長引いたため、そこで待たされるはめになってしまったのです。
「あれ、江川さん、どっか痛めてんのかな」
それが最初に抱いた感想でした。
「だってバットに当てられているんですから。調子のいい時の江川さんなら、まずバットに当てさせませんから……」
試合は両チーム無得点のまま延長戦へ。10回裏、銚子商はサヨナラのチャンスを掴みました。2死一、二塁の場面で2番・長谷川泰之選手が一二塁間を破りました。二塁走者は悠々ホームインと思われましたが、キャッチャーの小倉(現姓亀岡)偉民選手が本塁の手前で走者をブロックし、作新はどうにか徳俵で踏みとどまりました。
試合途中から降り始めた雨は延長に入って勢いを増しました。12回裏、銚子商の攻撃が始まる頃にはバケツを引っくり返したような大雨になっていました。
しかし、土屋さんに雨の記憶は、ほとんどありません。それだけ試合に集中していたということなのでしょう。
「途中で土砂降りになってきたんですけど、僕は覚えていない。あとで聞いたら、もし12回が終わって互いに0点だったら、打ち切って再試合になっていたそうです」
土砂降りの雨は江川さんの指先の感覚を微妙に狂わせます。2つの四球とヒットで1死満塁。打席には2番の長谷川選手が入りました。長谷川選手はタオルで何度もバットを拭いました。バットを短く持って素振りをすると、グリップエンドまでスルリとヌケたそうです。
3ボール2ストライク。ここで銚子商の斉藤一之監督は「ストライク・スクイズ」のサインを出します。土屋さんが言うには、春の関東大会で、初めて江川さんから1点をとった。それがスクイズによるものだったからです。
「結局は負けたんですけど、あの江川さんから1点をとった。江川さんからでも点がとれるんだ。僕らに自信をつけさせるために監督はスクイズをさせたと思うんです。その時の記憶が甦りました」
絶体絶命の場面で江川さんはタイムをかけ、内野手をマウンドに集めます。
「最後は思い切って投げたいんだけど、どうだ?」
それに応じたのがファーストの鈴木秀男選手でした。
「オマエのおかげで春も夏も(甲子園に)来られたんだ。最後は好きなようにしろ」
ワンマンチームがひとつになれた瞬間でした。目いっぱい腕を振ったボールは大きく高めに外れはしましたが、なぜか江川さんは晴れ晴れとした表情をしていました。ひとりで背負い込んでいた重い荷物を降ろした瞬間だったのかもしれません。
振り返って土屋さんは語ります。
「僕は卒業後、プロ(中日)に進みましたが、江川さん以上のボールは見たことがない。特に高校2年生の秋の江川さんは速かった。軽く投げているのに、ボールが下から上にホップしてくる。(江川さんが高校2年生の頃に)スピードガンがあったら、いったい何キロ出ていたんでしょう……」
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