長い歴史を誇る甲子園で、日本統治下のチームが決勝に進出したことが一度だけあります。1931年夏、初出場ながら快進撃を見せ、決勝では中京商に0対4で敗れたものの、準優勝を果たした台湾の嘉義農林学校です。この“奇跡のチーム”の物語は、2014年に「KANO 1931 海の向こうの甲子園」というタイトルで映画化され、日本と台湾で上映されました。
弱小チームだった嘉義農林を強豪に育て上げたのは四国の名門・松山商出身で、同校初代監督の近藤兵太郎です。
1925年に嘉義商工学校の簿記教諭として赴任、28年から嘉義農林の指導を開始、31年に監督に就任します。
まさにこの年、嘉義農林は甲子園初出場を果たし、決勝にまで進出するのです。
今なら、“近藤マジック”として評判になっていたことでしょう。
2回戦から出場した嘉義農林は神奈川商工を3対0で破り、甲子園初勝利をあげます。準々決勝では打撃戦の末、札幌商を19対7で圧倒、準決勝では小倉工に10対2と大勝します。決勝こそ、中京商の吉田正男投手に5安打完封負けをくらいますが、堂々の準優勝でした。
この“嘉農旋風”の模様を、感傷的な筆致で伝えているのが小説家の菊池寛です。
<僕は嘉義農林が神奈川商工と戦った時から嘉義ひいきになった。内地人、本島人(漢民族)、高砂族といふ変わった人種が同じ目的のために協力し努力してをるといふ事が何となく涙ぐましい感じを起こさせる。実際に甲子園に来て見るとファンの大部分が嘉義ひいきだ。優勝旗が中京に授与されると同じ位の拍手が嘉義に賞品が授与される時に起こったのでもわかる。ラジオで聞いてゐるとどんなドウモウな連中かとおもふと決してさうではない。皆好個の青年である>(東京朝日新聞・1931年8月22日付け)
31年夏の嘉義農林のメンバーを見てみましょう。人種構成は以下のようになっています。
投手 吳明捷(漢民族)
捕手 東和一(高砂族)
一塁 小里初雄(日本人)
二塁 川原信男(日本人)
三塁 真山卯一(高砂族)
遊撃 上松耕一(高砂族)
レフト 平野保郎(高砂族)
センター 蘇正生(漢民族)
ライト 福島又男(日本人)
補欠 崎山敏雄(日本人)
補欠 里正一(日本人)
補欠 谷井公好(日本人)
補欠 積真哉(日本人)
補欠 劉蒼麟(漢民族)
菊池が言うように、内地人、本島人(漢民族)、高砂族の三民族が調和したコスモポリタン的なチームとなっています。
その背景には、<兵太郎は元来、人を区別したり、差別したりする性癖を持ち合わせていなかった。民族の違いは、野球が好きという一点においては、何も問題はないと思っていた>(『台湾を愛した日本人Ⅱ』古川勝三・アトラス出版)ことがあったと思われます。
民族に関係なく、兵太郎は「適材」を「適所」で起用することにこだわりました。
<まずは嘉義農林学校の中から、有望選手を見つけることであった。その結果、テニス部からは腕力の強さを買われた蘇正生が、マラソン部からは足の速い部員が勧誘されて入部した>(同前)
兵太郎の手腕によって強豪にのし上がった嘉義農林は春夏合わせて5回、甲子園に出場しています。1935年の夏には、準々決勝で兵太郎の母校・松山商と対戦し、延長10回、4対5で力尽きますが、大会屈指の名勝負といわれました。辛勝した松山商が全国制覇を達成したことを考えれば、嘉義農林も、ほぼ同等の実力を有していたということです。現在、嘉義農林は国立嘉義大学となり、歴史をつないでいます。
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