わずか11人の選手で準優勝。1974年春の甲子園には池田(徳島)の“さわやかイレブン旋風”が吹き荒れました。
その中心にいたのがエースの山本智久さんです。1回戦から決勝までの5試合をひとりで投げ抜きました。
春夏合わせて3度の全国制覇を誇る池田ですが、74年当時は全国的にはまだ無名で、センバツはこれが初出場でした。
ノーマークゆえ、甲子園のマウンドでも「プレッシャーは感じなかった」と山本さんは言います。「むしろ、試合を楽しむといった感じでしたね。(高校2年の)修学旅行にも行けなかったので、その分も楽しんでこようかと……」
3月28日、大会初日に登場した池田の相手は函館有斗(北海道)。池田は4対2で勝利し、勢いに乗ります。
「序盤でトップバッターの雲本博がホームスチールを決めたんです。打席に入っていたのは4番の上浦秀明。実はこのコンビでよくやっていたんですよ。やるかな、と思っていたら、本当にやった。ウチの持ち味が出て、これでいけるぞ、となりました」
蔦文也監督率いる池田といえば“山びこ打線”が代名詞ですが、山本さんによれば、「この頃は守って勝つ野球」を基本にしていました。
参考までに言えば、この年のセンバツは、まだ木製バットが使用されていました。金属バットに変わるのはこの年の夏からです。
2回戦で防府商(山口)に3対1、準々決勝で倉敷工(岡山)に2対1、準決勝では和歌山工に2対0。池田は接戦を制し、ついに決勝に駒を進めました。
相手は5倍以上の部員数を誇る報徳学園(兵庫)。同校の福島敦彦監督は試合前、「59人のチームが11人のチームに負けるわけがない」と発破をかけたといいます。
試合は池田・山本投手、報徳・住谷正治投手の投げ合いで淡々と進み、6回に報徳が1点を先制します。
池田は毎回のようにランナーを出しましたが、先発・住谷投手の前にタイムリーが出ず、不利な戦いを余儀なくされていました。暗雲を振り払ったのは8回表です。2死二塁の場面で2番・泉岡文教選手にセンター前の同点タイムリーが飛び出したのです。
小柄で非力な泉岡さんのタイムリーは残り10人の選手たちを勇気づけました。だが、善戦もそこまで。報徳は2番手のサウスポー東芳久投手が好投。8回裏、エラーも絡んで2点を失った池田は、結局、1対3で報徳の軍門に下りました。
47年前の決勝戦を、山本さんはこう振り返ります。
「自分たちの力を出し切ったという実感があったため、負けてもそれほど悔しくはなかったですね。涙も出ませんでしたよ」
蔦監督からは一言、「ご苦労さん」とねぎらいの言葉をかけられたといいます。
実は当時の池田、最初から部員不足だったわけではありません。山本さんが入部した年は、15人の同級生がいました。それが夏が終わる頃には6人にまで減っていたそうです。
蔦監督の指導が厳し過ぎたということでしょうか。蔦さん本人は「厳しくし過ぎたからみんなやめて11人になってしもうたんじゃ」と語っています。
「いや、練習自体はそこまでではありませんでした。練習時間も長くはありませんでしたから」とは山本さん。こう続けます。
「むしろ厳しかったのは野球に取り組む姿勢。この点は厳しく指導を受けましたね」
木製バット時代の池田はホームスチールあり、ダブルスチールあり、スクイズありと奇襲を得意とするチームでした。ところが金属バットが採用されるや、スタイルはパワー野球に一変します。こうした発想の柔軟性こそが蔦文也という指導者の真骨頂だったのかもしれません。
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