
1979年夏の甲子園は、箕島(和歌山)が春に続いて連覇を達成しました。スター選手が多く、その筆頭が牛島和彦さんと香川伸行さんの浪商(大阪)バッテリー。内野手では後に巨人で活躍する大分商の岡﨑郁さんが大型ショートとして注目を浴びました。
この大会、2年生ながら話題を集めた大型サウスポーがいました。横浜商(神奈川)の宮城弘明さんです。身長193センチ、体重は約100キロ。卒業後はヤクルトに進みました。
宮城さん擁する横浜商は、準々決勝で岡崎さんが3番を打つ大分商と対戦しました。
2対2の9回表、横浜商打線は疲れの見える大分商・松本健投手に5長短打を浴びせ、一挙4点。最終回に1点を返されましたが、6対3で横浜商が勝ちました。
この試合、岡﨑さんは、左対左の不利をものともせず、プロ注目の大型左腕から3安打を放ちました。しかし、本人によると、最終回に放ったレフト線の2ベース以外は覚えていないそうです。
「宮城はとにかくデカかった。マウンドからの距離が、あれだけ近く感じられたピッチャーは初めてです。僕らの時代、190センチを超えるピッチャーは、そうはいませんでしたから。
全体的な印象として、コントロールはアバウトでしたが、ストレートは速くて重かった。しかもスリークォーター気味に投げてくるから威圧感がありました」
2対6と4点リードの9回裏、岡﨑さんに5打席目が回ってきます。普通ならまなじりを決して打席に向かうところですが、岡﨑さんは監督に交代を申し出たそうです。
「チームメイトには土手文彦という仲のいい同級生がいたんです。そいつは、1回も甲子園の試合に出ていない。それで監督に“僕のかわりに打たせてくれませんか?”と。結局、監督からは“オマエが打て!”と言われ、僕が打席に立つことになったんですが……」
この打席で、岡﨑さんは宮城さんの外角高めのストレートをサードの頭上、レフト線にライナーで運びました。
この高校生離れしたシュアな打撃が長嶋茂雄さんの目に留まります。実は長嶋さん、試合前の練習中、ちらちらとテレビに目をやっていたというのです。
岡﨑さんは高校卒業後、東京六大学野球の法政大に進学することが決まっていました。
「東京六大学からは明治大と法政大から誘いがありました。中でも法大の鴨田勝雄監督から熱心に誘ってもらった。まあ1年生では無理にしても、2年からはレギュラーになる自信はありました」
秋のドラフト会議前、岡﨑さんと学校は各球団のスカウトに「法大に行きますから」と断りを入れていました。
ところが、です。あろうことか巨人が3位で岡﨑さんを指名してしまったのです。
「確か5時間目の授業の時ですよ。ガラガラッと戸を開けて教頭先生が教室に入ってきた。“ちょっと岡﨑”と呼び出され、廊下に出たら“ジャイアンツが指名したよ”と。うれしい、という気持ちなんて一切なかった。僕は進学を決めているから、“困ったな”と思いましたよ」
当時、“ミスター・ジャイアンツ”の威光は絶大です。1カ月後、スカウトを伴って長嶋さんが大分の実家にやってきた時点で、岡﨑さんは巨人入りを覚悟したそうです。
「僕らの時代、長嶋さんは神様です。その神様が家に現れた時点で、僕は“これは、もう断れない。そんなことをしてはいけない”と子どもながらに思いましたね」
スカウトによると、指名の決め手は、宮城さんから奪ったレフト線の2ベースだったそうです。長嶋さんの目がキラリと輝いた瞬間、岡﨑さんのその後の運命も決まってしまったのです。
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