桑田真澄投手と清原和博選手がいた時代のPL学園(大阪)を甲子園史上最強チームに推す人は少なくありません。かくいう筆者も、そのひとりです。優勝2回(83年夏、85年夏)、準優勝2回(84年春、84年夏)。甲子園での通算戦績は23勝3敗です。
1983年夏、PL学園はともに1年生だったエース桑田投手と4番・清原選手の活躍で全国制覇を達成します。当然のことながら翌84年春も夏春連続優勝を狙っていました。
一回戦 PL学園 18-7 砂川北(北海道)
二回戦 PL学園 10-1 京都西(京都)
準々決勝 PL学園 6-0 拓大紅陵(千葉)
圧倒的な強さで勝ち進んだPL学園は、準決勝で都城(宮崎)と対戦します。ここには田口竜二投手(3年)という大型左腕がいました。
「まぁ、ボコボコにやられるだろうな」
田口さんは、そう思っていたそうです。というのも、センバツ直前に肩を痛め、以来、ずっと鈍痛に悩まされていたからです。
当然、この情報はPL学園サイドにも伝わっていました。それもあって、PL学園はエースの桑田投手を温存し、同じ2年生右腕の田口権一投手を先発させたのです。その結果、はからずも田口対田口の対決になってしまいました。都城の田口さんが身長185センチなら、PL学園の田口投手は身長192センチ。体格だけなら、二人ともプロ顔負けでした。
肩を痛めていた都城の田口さんは、毎イニング、サロメチールを塗りながらの苦しいピッチングでした。「コントロールだけに気をつけよう」。これが吉と出ました。
PL学園のバッターは角度のあるストレートと落差の大きいカーブに手が出ません。加えて言えば、田口さんの場合、腕が遅れて出てくるため、タイミングをとるのも容易ではありませんでした。
一方、PL学園は先発・田口投手が1回1/3を無得点に抑え、2回途中から2番手・高松省平投手がマウンドへ。2回、3回を0点に抑えると、早々とバトンをエース桑田投手に渡しました。都城・田口、PL桑田、両投手の投げ合いはともに無得点で進み、9回が終わって0対0。準決勝は1点を争う好ゲームとなりました。
9回が終わった時点で、田口さんは川野昭喜監督から「大丈夫か?」と聞かれました。田口さんは、即座に「大丈夫です!」と答えました。「そう答える以外にありませんでした(笑)」。
好投を続ける田口さんですが、ひとつ気になることがありました。それは、この日、まだ1本のヒットも放っていないことでした。
振り返って、こう語ります。
「実は僕、プロへはバッターで行くつもりだったんです。準々決勝の愛工大名電(愛知)戦ではホームランも放っていました。それが、この日はノーヒットですから、“これじゃ、プロにアピールできないな”と……」
勝負がついたのは、延長11回裏です。2死一塁で、田口さんは桑田投手を打席に迎えました。
桑田投手の打球はライト方向へ。平凡なフライでした。マウンド上の田口さんは、次のイニングのことを考えていました。
と、その時です。ライト隈崎正彦選手のグラブからボールがこぼれ落ちているのが見えました。
再び田口さんです。
「僕はホームのバックアップに入るのが遅れているんです。チェンジだと思ってベンチに帰りかけていましたから……」
PL学園は、わずかなミスも見逃しません。一塁ランナーの旗手浩二選手が生還し、PL学園に虎の子の1点が入ります。0対1。都城は夏春連覇を目指すPL学園を、あと一歩のところまで追い込みながら、サヨナラ負けを喫してしまいました。田口さんは被安打5の力投でした。
普通のピッチャーなら泣き崩れるところです。ところが、キャッチャーの後方で田口さんは笑みをこぼしていました。
「あのPL学園相手によくやったよ。オレたち、大健闘だと思うと、自然に笑顔が出てしまったんです」
翌朝、宿舎で最後の朝ご飯を食べていると、テレビでこのシーンが映し出されました。
「すぐに川野監督に呼ばれました。“オマエ、負けたのに笑っているとは何事だ!”と言ってボカン! 鼻血を流しながら、ご飯を食べたのを覚えています」
南海での7年間の現役生活の後、球団スタッフを経て、会社員となった田口さん。昨季から2シーズン、出向というかたちでベースボールチャレンジリーグ(BCリーグ)の石川ミリオンスターズで監督を務めていました。今でもユニホーム姿の似合う54歳です。
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