高校(作新学院・栃木)時代、“怪物”の異名をほしいままにした江川卓さんの、巨人でのライバルと言えば西本聖さんです。“エリートvs雑草”という構図で語られる2人ですが、既に高校時代から接点はありました。
江川さんの高校時代の実績は圧巻です。公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回、36イニング連続無安打無失点……。以前にも書きましたが、バットがボールに当たっただけでスタンドからは拍手が起きました。そんなピッチャーは、後にも先にも江川さんだけでしょう。1973年センバツでの60個という一大会最多奪三振記録(春)は、今も破られていません。
一方の西本さんも、地元ではエリートでした。西本さんが入学した松山商(愛媛)は全国屈指の名門で、春2回、夏4回(当時・現在は5回)の全国制覇を達成していました。
西本さんは7人兄弟の末っ子で、4人の兄がいました。三男の明和さんは、松山商のエースとして66年夏の甲子園で準優勝投手になっています。その年の2次ドラフトで広島に1位指名され、入団しています。交通事故の影響で、ピッチャーとしては短命でしたが、その後は野手に転向し、76年までプレーしています。
さらに四男の正夫さんは、69年夏、松山商が三沢(青森)との延長18回引き分け、再試合という“甲子園史上最高の名勝負”を制して日本一になった時のファーストで、中央大や日本生命でも活躍しました。
甲子園で優勝経験と準優勝経験のある2人の兄を持つ弟なんて、そうはいません。周囲の期待は、いやが上にも高まります。
中学時代から、そのピッチングは評判で、地元の高校野球ファンは「聖はすごいぞ、明和、正夫以上だ。これでまた甲子園で優勝できるぞ」と松山商入学前から盛り上がっていたそうです。
実際、西本さんは1年生で頭角を現します。自著「長嶋監督の往復ビンタ」(ザ・マサダ)を引きます。
<兄貴ふたりが甲子園で活躍したこともあり、入学からわずか半月後の大会で僕はマウンドに立つチャンスを与えられた。春の甲子園出場チームも交えて行われた北四国大会決勝戦でのことだった。
自分で言うのも何だが、センセーショナルなデビューだった。僕はまだ硬球を握ってから2カ月足らずだったが、名門高松商業を相手に1対0で完封。外野にボールを飛ばさせなかった。>
当時、愛媛のレベルは高く、1学年上には“東の江川、西の藤田”と呼ばれた南宇和の藤田学さん(74年・南海ドラフト1位)、強肩強打のショート、八幡浜工の河埜敬幸さん(74年・南海3位)、本格派右腕の同・酒井増夫さん(74年・近鉄5位)、また同学年には新田のサウスポー大川浩さん(75年・大洋3位)らがいました。
それでも、江川さんの投げるボールは別格だった、と西本さんは言います。
2人が練習試合で投げ合ったのは江川さんが高3、西本さんが高2の時です。この試合、西本さんは3番・投手で出場しました。
<1回表、ツーアウトで僕は打席に入った。いきなり江川さんは初球ストレートを投げ込んできた。「これか!」。僕はそのボールを見逃しながら、驚かぬわけにはいかなかった。「ボールが浮く」というのは本当だった。ホームベースの前で江川さんの投げたボールがホップしたのだ。同じ高校生が投げるボールとは、到底思えなかった。>(同前)
結局、このゲーム、作新が2対0で松山商を下しました。しかもノーヒットノーラン。実に27個のアウトのうち16個が三振だったそうです。 <しかも取られた2点は僕が江川さんに打たれたツーベースヒットによるものだった。ハッキリ言って江川さんは、モノが違うという感じだった。>(同前)
高校卒業後、ドラフト外で巨人に入団した西本さんは、先発とリリーフで入団3年目に8勝4セーブをあげ、ローテーション入りに近付きます。法政大、1年の浪人生活を経た江川さんは“空白の1日”を利用して、78年オフに巨人と契約を結びます。世間から猛反発を受け、正式入団は翌年に持ち越されますが、78年、4勝2セーブと成績を落としていた西本さんの心境は複雑だったようです。
「江川さんの実力を知っているから、“来るな!”と思いましたよ」
そんな2人が、巨人ではエースの座を巡って争うことになるわけですから、人生とはわからないものです。
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