雨の甲子園といえば、1975年の夏を思い出します。大会期間中、2つの台風が列島を直撃し、計5日間も順延されました。17日間に及ぶ長い大会を制したのは、千葉県代表の習志野でした。
過日、鈴木大地スポーツ庁長官と話していた際、ひょんなことから甲子園の話題になりました。「あの試合のことは、よく覚えています。僕は習志野の出身ですから……」。鈴木長官は当時、8歳でした。「サヨナラのタイムリーを放ったのは下山田清選手。最後まで手に汗握る、文字通りの熱戦でしたね」
一方で私は愛媛に住む高校1年生でした。当然のことながら応援していたのは北四国代表の新居浜商(愛媛)です。当時は愛媛県と香川県の代表が2校ずつ出場し、一枚の甲子園出場切符を争う仕組みでした。ともに市立の高校同士(当時)の対決でもありました。
習志野のエースは今季まで東京ヤクルトの監督を務めた小川淳司さんです。速球派の好投手で、習志野は8年ぶりの全国制覇を狙っていました。指揮を執っていたのは67年の優勝投手・石井好博さんです。
「僕にとっては恵みの雨でした」。小川さんは44年前の夏を、こう振り返ります。「準決勝の広島商戦、試合途中でドシャ降りとなり、1時間47分の中断があったんです。これがいけなかった。再開してマウンドに上がると肩が上がらない。たまたま試合には勝ったものの、翌日の決勝が不安でした」
翌朝になっても、右肩の痛みは消えませんでした。大会期間中、ずっと肩の痛みに悩まされ続けてきた小川さんですが、連投によりうずくような不気味な痛みに変わっていったといいます。
意を決して小川さんは、石井監督に「今日は肩が痛くて投げられません」と切り出しました。「投げたら、皆に迷惑がかかってしまいます」。待っていたのはカミナリでした。「バカヤロー! オマエ以外に誰が投げるんだ!」
一方の新居浜商は初出場とはいえ、レベルの高い北四国の代表です。愛媛県勢としては69年の松山商以来、6年ぶりの全国制覇の期待がかかっていました。
エースの村上博昭さんは、打っては3番。まさにチームの要でした。激戦区を勝ち抜いてきた村上さんも小川さん同様に肩に不安を抱えていました。
「全身に100本の鍼を埋め込んで甲子園にやってきたんです。大会中も必ず宿舎近くの整骨院で治療を受けていました」
後に法政大の指揮を執る監督の鴨田勝雄さんは、このとき、まだ35歳。血気盛んな青年監督でした。
「肩が痛いなんて、怖くて言い出せませんでしたよ」
大会期間中に発生した台風6号の影響で決勝は2日続けて順延されました。この2日間、小川さんはキャッチボールを封印しました。正確に言えば、肩が痛くてボールが投げられなかったのです。
小川さんは言います。「決勝でも痛みは残りましたが、完全休養のおかげで肩は動きました。だから、どうにか完投することができたんです」
村上さんも同様でした。「あの2日間のおかげで体力が回復し、名勝負になったと思うんです」
試合は追いつ追われつの好ゲームとなりました。新居浜商は2回に1点、4回に2点を入れ、優位に立ちますが、5回に4点を奪われ、逆転されます。7回に1点を返し、4対4の9回裏、新居浜商は2死一、三塁と一打サヨナラ負けの場面を迎えます。
ここで打席に立った習志野の下山田選手は、石井監督から「ショートの頭上を狙え」との指示を受けます。快音を残した打球はライト前へ。飛んだ方向は逆でしたが、これが幸いしました。打球はライト竹葉和範選手の前で跳ね、三塁から越智修一選手が決勝のホームを踏みました。2時間46分の熱闘でした。
優勝の瞬間、小川さんの脳裏に真っ先に浮かんだのは、次の思いでした。
「もう、これで投げなくていいんだ……」
試合後の甲子園には赤とんぼが舞っていました。
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