春夏通じて、群馬県勢として初めて甲子園を制したのは1999年夏の桐生一高です。エース左腕の正田樹投手は6試合で708球を投げ抜き、3完封、防御率0.85。圧倒的なピッチングで全国優勝の立役者になりました。その年のドラフトでは日本ハムから1位指名を受けました。今季から東京ヤクルトの2軍投手コーチに就任した正田さんに、25年前の夏の思い出を振り返ってもらいました。
――大会前は、どれくらいまで行ければいい、と考えていたのですか?
正田 とにかく1回戦だけは絶対に勝ちたいと思っていました。というのも前年の夏、僕たちは開会式直後の試合で明徳義塾高(高知)に延長10回を戦ってサヨナラ負けをしたんです。要するに、甲子園で一番最初に(地元に)帰るチームになってしまった。あれは悔しかった。だから何としても1回戦だけは勝とうと……。
――1回戦の相手は比叡山高(滋賀)。8回裏に2点を取り、2対0で逃げ切るのですが、正田さんは7回2死まで完全試合を続けていました。
正田 バッターは左の橋元宏太。2ナッシングと追い込んだ後、真っすぐを投げたらうまくバットに合わされました。打球はサードの頭上を越えてレフト前へ。決めにいった分、力んだんだと思います。ちょっとツメが甘かったですね(笑)。
――群馬県勢の完全試合といえば、78年センバツでの前橋高・松本稔投手が思い出されます。あの時の相手も比叡山高でした。そのことが頭にあったものだから、またやるのかと……。
正田 松本さんの完全試合については聞いていましたが、あの時の相手も比叡山だったとは知りませんでした。
――2回戦は仙台育英高(宮城)相手に11対2と大勝。苦しんだのは3回戦の静岡高戦です。4対3で逆転勝ちしましたが、2回に2点を先制される苦しい試合でした。
正田 あの日は第1試合で、体がまだ起きていない状態でした。2回に点を取られた時、本塁のカバーに行ったのですが、“体が重いなあ”と感じたことを覚えています。
――準々決勝の桐蔭学園高(神奈川)戦も7回2死までノーヒットノーランの好投。ゲームも4対0で完勝でした。深紅の大旗が見えてきたのではないですか。
正田 いえ、1戦1戦が必死でした。試合前の夜に、相手チームをビデオで分析するのですが、どうしても眠くなるんです。コーチから「ここまで来たからと言って満足するな」と叱られました。それでもう一度チームが引き締まったと思います。
――準決勝の樟南高(鹿児島)戦も苦戦しました。相手の上野弘文投手も、その後、広島に進む好投手で、最終回に2点を取りなんとか2対0で逃げ切りました。
正田 完封はしたものの、あまり調子は良くなかった。実は左手の中指に前の試合あたりから血豆ができ、それを医療スタッフの人に注射で抜いてもらってマウンドに上がっていたんです。だから球速も出なかった。最終回に高橋雅人が右中間に3ベースを打ってくれた時にはホッとしました。
――そして決勝戦は岡山理大付高。14対1の大勝で全国4096校の頂点に立ちました。
正田 3回戦から4連投ですから、正直言って疲れていました。1回に1点取られた後、その裏すぐに追いついた。これによって自分のペースで投げることができました。守備がいいのもウチの特徴でした。
――3完封を演じた甲子園での好投の理由は?
正田 いわゆる“真っスラ”ですね。本当はきれいな真っすぐを投げたかったんですが、僕の場合、中指の腹の部分でボールを切るため、右打者に対しては食い込むようになるんです。これに詰まったかたちでのショートゴロ、サードゴロが多かった。今でいうカットボールですね。
――25年前の優勝の重みは今も残っていますか?
正田 NPBを引退する時、台湾や独立リーグの球団に入団する時、そして今回ヤクルトのコーチに就任する時など、必ず僕には“甲子園の優勝投手”という紹介文が付くんです。その時、改めて優勝投手の重みを実感しますね。これは野球に関係し続けている限り、付いて回るものだと思っています。
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