
今から半世紀以上前、関東には3人の剛腕がいました。1974年夏の甲子園優勝投手の土屋正勝さん(千葉・銚子商)、73年春の優勝投手の永川英植さん(神奈川・横浜)、そして74年秋の国体優勝投手の工藤一彦さん(茨城・土浦日大)です。74年秋のドラフト会議では土屋さんと永川さんが、中日ドラゴンズとヤクルトスワローズから1位、工藤さんが阪神タイガースから2位指名を受け、入団しました。今回は“関東三羽烏”と呼ばれた3人のエースが一堂に会した73年秋の関東大会にフォーカスしてみます。
この大会で優勝を果たしたのは、土屋さん擁する銚子商でした。1回戦で川口工(埼玉)を2対0で下した銚子商は、準決勝で土浦日大と対戦します。
「工藤は1年生からエース。僕が高校に入った頃はまだ千葉県と茨城県の代表で夏の甲子園出場を争う東関東大会があり、僕らは“工藤を倒さなければ甲子園には行けない”という思いがありました」
そう話す土屋さんに、「ライバル心はありましたか?」と訊ねました。
「そりゃ、ありましたよ。練習試合もしょっちゅうやっていましたから。それにアイツは球が速いだけではなく、脚も速かった。確か中学までは陸上もやっていたはずです。コーチから、“オマエら競争しろ!”と言われ、走らされたことがあるのですが、全く勝てなかったですね」
試合は2対2のまま延長に突入し、銚子商が3対2でサヨナラ勝ちを収めました。土屋さんはバッターとしても活躍し、工藤さんから2本のヒットを放ちました。
決勝の相手は横浜。エースの永川さんは、この年のセンバツの優勝投手です。190センチの長身から投げ下ろすストレートは高校生離れしていました。
再び土屋さんです。
「横浜は準決勝で宇都宮学園(栃木)に6対1で勝利しました。その試合を僕たちはスタンドから見ていたのですが、球が速い上に体もデカイ。“こんなピッチャー、打てるんだろうか”と思っていました」
ところが蓋を開けるや打つわ、打つわ。銚子商は永川さんに13安打を浴びせ9対0で大勝しました。5番に入った土屋さんは、4打数3安打1打点と大活躍。「いや、こんなに打てるとは、自分でもびっくりでした」と振り返り、続けました。
「永川は速いことは速いけど、どちらかと言えば棒球かな。変化球については、あまり記憶にないですね。まあ9点も取ったんだから、彼も本調子ではなかったのでしょう」
投げては3安打完封。準決勝、決勝を通じての“関東三羽烏”対決は土屋さんに軍配が上がりました。
「工藤も永川も速かったですよ。いいボールを投げていました。しかし“ウワッ!”という驚きはなかった。それは、僕らの1年上に、とんでもない怪物がいたからなんです。そうです、作新学院の江川卓さんです」
前年、すなわち72年秋の関東大会は「江川卓の、江川卓による、江川卓のための大会」と呼ばれました。
江川さん擁する作新学院は1回戦で東農大二(群馬)に10対0、準決勝で銚子商に4対0、そして決勝では1年生の永川さんが先発した横浜に6対0と、全て完封勝ちで頂点に立ったのです。大差のついた東農大二戦以外は、全て江川さんがマウンドを守りました。
準決勝で1年生の土屋さんは2番手として登板しました。江川さんは銚子商から20三振を奪い、打たれたヒットはわずか1本。格の違いを嫌というほど見せつけられました。
最後に土屋さんは、しみじみとした口ぶりで、こう語りました。
「僕はプロでも12年間やりましたが、江川さんより速いボールは見たことがない。ベースの上で浮き上がってくるんですから。またカーブもすごかった。頭付近に来たボールをよけようとすると、外角いっぱいに決まっていました。そんな凄いピッチャーと投げ合えたことは、今でも僕の大きな財産です」
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