
「まさか自分に文化勲章の話が来るとは思っていなかったので、本当にびっくりしています」。プロ野球界で通算868本塁打の「世界記録」を誇る王貞治さん(現福岡ソフトバンクホークス取締役会長)が今年の文化勲章を受章することになりました。親授式は11月3日に皇居で行なわれます。今回は王さんの高校時代にフォーカスしてみましょう。
これまでスポーツ界で文化勲章を受章した人物は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた競泳の古橋広之進さん、“ミスタージャイアンツ”の異名で国民的人気を博した長嶋茂雄さん、サッカーJリーグ初代チェアマンの川淵三郎さんの3人。王さんは4人目の受賞者となります。
本題に入りましょう。王さんが早稲田実業学校(東京)のエースとして甲子園優勝を果たしたのは1957年のセンバツです。王はさんは2年生でした。この年はサウスポーに好投手が揃っていました。なんとベスト4に残った4校のエースは早実・王貞治、久留米商(福岡)・手島征男、高知商(高知)・小松敏広、倉敷工(岡山)・渡辺博文といずれもサウスポーでした。
2回戦から登場した早実は寝屋川高(大阪)に1対0で接戦をものにします。王さんは1安打10奪三振の好投でした。
準々決勝の柳井高(山口)戦でも王さんのピッチングはさえ渡ります。5安打11奪三振で2試合連続完封。スコアは4対0。相手チームには、後に阪神の主砲となる遠井吾郎さんがいました。準決勝の久留米商戦も4安打6奪三振で3試合連続完封。6対0の完勝でした。
迎えた決勝の相手は、四国の強豪・高知商。5回まで王さんはパーフェクト・ピッチングを続けていましたが、その後、左手中指と人差指しのマネを潰し、後半に入ると球威が落ちます。それでも最後までひとりで投げ切り、5対3で勝利。紫紺の大旗を初めて関東に持ち帰りました。
ところで王さんは、最初から早実を目指していたわけではありません。現在の墨田区で生まれた王さんが目指したのは地元の進学校・両国高でした。以下は、王さんに一本足打法を授けた荒川博さんから聞いた話です。
「これは初めて話すことなんだが、実は王の父親(仕福)は両国高-東大というコースを描いていたんだ。当時、下町における名門といえば両国高。はっきりいうけど早実なんて、当時は誰だって入れたんだよ」
――つまり王さんは勉強もできたと?
「王の父親には早実入りを勧めたんだけど、その気はないという。それで“東大に受かることをお祈りします”と言って帰ってきたんだ。ただ、人間は諦めちゃいかんもんだな。オレの持論に“人間、諦めが肝心だというヤツに成功したためしがない”と言うのがあるんだ。
帰り際、近くの運動具屋のオヤジに『おい、あそこの中華屋の二番目の倅、勉強できるのか?』と聞いたんだ。『オォ、あそこは秀才一家だよ』と。『アイツ、両国高校受けるらしいけど、人間間違いもある。落っこちたら電話くれ』と頼んだんだ。すると、本当に落っこちたんだ(笑)」
――荒川さんの念力が通じたんですかね(笑)。
「それも後で聞いたら1点差だったっていうんだ。それで、“よっしゃ”と思って早実に引っ張ったんだ」
実は王さんが受験したのは両国高ではなく、地区では同校に次ぐ進学校の墨田川高でした。もし王さんが合格していたら「世界の王」は誕生していなかったわけです。それを考えれば、神様の粋な計らいだったと言えるかもしれません。
ちなみに、王さんが甲子園で披露したノーワインドアップ投法を教えたのも荒川さんでした。
「オレの早稲田の家に映写室があってドン・ラーセン(元ニューヨーク・ヤンキース)の映像を16ミリで見せたんだ。プロが直接、高校生に教えちゃいかんことになっているから、間に人をひとり挟んだんだけどね」
――当時、プロ野球でもノーワインドアップで投げるピッチャーはいなかったでしょう?
「そりゃ、そうだよ。大リーグだってラーセンくらいしかやっていなかったんだ。それほどオレが大リーグ好きだったってことだよ」
王さんの文化勲章受章を、荒川さんも泉下で喜んでいるはずです。
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