
子どもの頃のやけどが原因で、右手の小指と薬指が癒着するというハンデを負いながら、プロ野球史上最多の3085安打をマークした張本勲さんが、さる9月9日、86歳で亡くなりました。野球選手にとって致命傷とも呼べるようなハンデを、血のにじむような努力で克服した「あっぱれ!」な野球人生でした。
張本さんは、もともとは“右利き”でしたが、やけどにより“左利き”への転向を余儀なくされました。
広島の段原中時代は「エースで4番」。素行の悪さを理由に、地元の名門・広島商、広陵に門前払いを食わされた張本さんは、無名の松本商(現・瀬戸内)に進学しますが、甲子園への夢断ち難く、大阪きっての強豪・浪華商(現・大体大浪商)に1年の途中で転校します。
張本さんによると、浪商時代、読売ジャイアンツの監督(当時)だった水原茂さんに「巨人に入らないか?」と口説かれたというのですから、投手としても相当な腕前だったのでしょう。当時の巨人のサウスポーといえば、義原武敏さんくらいで、水原さんの目に馬力のある張本さんは魅力的に映ったようです。
しかし、「高校だけはきちんと卒業して欲しい」という兄の意向もあり、この話は立ち消えになりました。
蛇足ですが、浪商のOBには、同校を2年生の11月に中退し、1962年、17歳で東映フライヤーズに入団した尾崎行雄さんがいます。3カ月前の、夏の甲子園の優勝投手です。張本さんからすれば、4学年後輩にあたります。
この年、本当なら高校3年生の尾崎さんが、豪速球を武器に、いきなり20勝をあげ、東映は初のリーグ優勝、日本一に輝きました。
シーズンMVPは、入団4年目ながら“不動の4番”として活躍した張本勲さん。133試合全てに出場し、打率3割3分3厘、31本塁打、99打点、23盗塁。2人の浪商OBが、チームを頂点に導きました。
ところで、張本さんは、なぜ高校時代に投手を断念したのでしょう。プロで大成したかどうかはともかく、水原さんが一目惚れしたほどの怪腕です。打者への専念は、投手失格の烙印を押されてからでも遅くはなかったはずです。
参考までに紹介すれば、張本さんが憧れた“打撃の神様”川上哲治さんは、熊本工から巨人に投手として入団しています。打力を買われて野手に転向したのは1年目(1938年)の春シーズンが終わってからですが、その後も時折マウンドに上がり、通算39試合で11勝9敗、防御率2.61という成績を残しています。
張本さんと同い年で、ライバル視していた巨人の王貞治さんも、打者としての才能を買われての入団でしたが、早実の甲子園優勝投手(1957年春)ということもあり、1年目のキャンプではブルペンで投球練習をしています。だが、間を置かずして、首脳陣から引導を渡されました。
話を張本さんに戻しましょう。自著『闘魂のバット』(ベースボール・マガジン社)によると、投手断念の原因は、投げ過ぎによる故障でした。
1957年、すなわち高校2年の夏、浪商のグラウンドに立教大学に進んだ先輩の片岡宏雄さんがやってきました。後に中日ドラゴンズや国鉄スワローズで捕手としてプレーし、ヤクルトではスカウト部長も務めました。
その片岡さんから「オレが捕る。投げてみろ」と命令されれば、それこそ腕が折れるまで投げざるを得ません。
<相手は大先輩だ、こちらから“やめます”などとは口が裂けてもいえない。しかも全力投球だ。“手抜き”など、できっこない。クタクタになって全力で投げ続けなければならない。200球も超え、「ようし、この辺でいいだろう」とピッチング終了の声がかかったときは、300球を超えていただろうか>(同前)
翌朝、張本さんは左肩の激痛とともに目を覚まします。それ以来、張本さんがマウンドに立つことはありませんでした。
最初は失意に沈んでいた張本さんですが、後々のプロでの活躍を考えれば、早めに打者一本に絞ったことは僥倖だったと言えるかもしれません。結果的には片岡さんが福の神だったのです。
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