ラグビーW杯史上最多となる4回目の優勝をフランスの地で果たした南アフリカ代表(愛称スプリングボクス)は、帰国後の11月2日から5日にかけて優勝パレードツアーを首都プレトリア、ヨハネスブルグなどで行いました。歓喜の輪の中心には、誇らしげに優勝トロフィー(ウェブ・エリス・カップ)を掲げるシヤ・コリシ主将の姿がありました。
祝勝セレモニーの場で南アフリカのシリル・ラマポーザ大統領は<国全体の精神を高揚させ、私たちを誇りで満たしてくれた。南アフリカの国民を団結させた>(『AFPBB NEWS』2023年11月2日配信)とスプリングボクスの功績を称え、12月15日を祝日にすると発表しました。
「団結」という言葉、コリシ選手も優勝直後のインタビューで口にしていました。
「団結すれば何でもできる。フィールドだろうと、オフィスだろうと場所は問わない。それをこのチームが証明した」
この熱のこもったスピーチに、4年前、横浜でのW杯日本大会決勝後の記者会見を思い出しました。この時、コリシ選手は「選手たちは様々な背景、人種から集まり、ひとつの目標を目指した。わたしたちは南アフリカを愛している。全員がひとつになれば、どんなことも達成できる」と語気を強めました。南アフリカ国民にとって、今やスプリングボクスは団結と結束の象徴なのです。
コリシ選手はポートエリザベスのタウンシップ(黒人居住区)出身の32歳。身長186センチ、体重99キロ、豊富な運動量を誇る万能型のフランカーです。2018年に黒人初となるスプリングボクスのキャプテンを任されてから、W杯2大会(19年日本、23年フランス)でも、その重責を担いました。優れたリーダーシップは誰もが認めるところです。
それを裏付けたのが、決勝のニュージーランド戦終了直後の、ある行動です。レフリーがノーサイドの笛を吹いた瞬間、バックスタンド側にいたピッチ上の14人に向け、ベンチにいたメンバーが駆け寄りました。後半33分に交代し、ベンチに退いていたコリシ選手も彼らに続きました。
ところが、途中でコリシ選手、踵を返してメインスタンド側に向かったのです。そこには後半33分、デリバレイト・ノックオン(故意にボールを前へ叩き落とす反則)により、10分間の退場処分を受けていたウイングのチェスリン・コルビ選手がいました。
コルビ選手に駆け寄ったコリシ選手、ハグをし、健闘を称えました。試合中、ジャージーで顔を覆うほど打ちひしがれていたコルビ選手の表情に一瞬、赤みが増しました。
自著『RISE』(岩崎晋也訳・東洋館出版)で、コリシ選手は<わたしがつける6番は、南アフリカ共和国ラグビー代表チーム、スプリングボクスではただの数字ではない>と述べています。
<1995年のワールドカップで南アフリカ共和国は初優勝したとき、主将のフランソワ・ピナールがつけていたのが6番だった。そして、ネルソン・マンデラ大統領が歴史的な決勝戦の前後、会場への移動のさいにつけていたのも6番だった。マンデラ大統領はわたしの英雄のひとりで、背中には彼の顔のタトゥーが入っている。だからこの番号をつけることは特別なことで、それを決して忘れることはない>
この6番を引き継ぎ、キャプテンとして2回のW杯優勝を果たしたコリシ選手、今や南アフリカではアイコン的存在です。
<南アフリカのすべての黒人にとって、かつてはずっと白人だけのものだと思っていたチームのキャプテンに、自分を投影できる人物が就いたことは大きかった。わたしと同じ肌の色、背景を持つ人々は、いまようやくそうした対象を手に入れた。わたしは彼らの目標となり、そこから、信じがたいほど強力なメッセージが発せられた>(同前)
ワンチーム、ワンカントリー。これが初優勝を果たした95年南アフリカ大会以来のスプリングボクスのスローガンです。人格者のキャプテンの存在が、それを可能にしています。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。