
リーグワンが佳境を迎える中、訃報が届きました。さる4月25日、日本代表や三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)で監督を務めた宮地克実さんが逝去しました。85歳でした。
現場を退いてからも、宮地さんは必ずホームである埼玉・熊谷ラグビー場での試合には、観戦に訪れていました。誰に対しても、関西弁で気軽に談笑する姿が印象に残っています。
現役時代のポジションはプロップ。1978年から87年の間に開催された11試合のテストマッチにおいて日本代表監督を務め、3勝7敗1分けの成績を残しています。
ラグビーのW杯第1回大会で、87年5月から6月にかけてオーストラリアとニュージーランドが他国を招待するかたちで開催されました。
その栄えある第1回大会で日本代表を指揮したのが宮地さんでした。
キャプテンの林敏之さんから、こんな話を聞いたことがあります。
「練習するにも人手が足りない。それで監督の宮地さんも参加することになった。あの人、50歳前なのにアタック・ディフェンスの時なんかドーンとラックに入ってきて、“いやぁ、このおっさん、すごいな”って(笑)」
同じような話は、三洋電機でプレーした飯島均さんからも聞きました。
「最初に命じられたのが8キロ走。選手だけにやらせるのかと思っていたら、なんと40歳過ぎの宮地さんも一緒に走ったんです。必死に走る姿を見て“引退して何年もたっているおっさんに負けるわけにはいかんぞ”という気になってきた。実際、中には宮地さんより遅いタイムの選手もいました」
宮地さんは自ら選手たちの中に飛び込み、ともに汗を流すことで、選手たちの信頼を獲得していきました。再び飯島さんです。
「当時の三洋は雑草をかき集めた野武士軍団。皆、個性が強い。理論だけのリーダーなら、ついていかなかったと思うんです。選手に厳しい練習を課すだけじゃなく、自らが率先垂範して、それを行なう。だから“この人についていこう”という気持ちになれたのだと思います」
しかし、監督時代、一度も全国社会人大会を制することはできませんでした。1988年度から94年度にかけての神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)の7連覇に重なったのが、不運と言えば不運でした。
とりわけ神戸との90年度の社会人大会決勝戦(91年1月8日、東京・秩父宮ラグビー場)は惜しまれます。
ロスタイムに入り、16対12とリード。勝利の女神の前髪を掴んだかに見えましたが、イアン・ウィリアムスさんの起死回生のトライと、その後のゴールにより、まさかの逆転負けを喫してしまったのです。
後日、敗因について訊ねると、宮地さんは無念の表情を浮かべて「大西(一平)がブラインドを突いてきて、ウチのディフェンスがそっちに振られてしもうた。あれが全てやったよ」と語りました。
宮地さんが「悲運の闘将」と呼ばれ始めたのは、この試合以降だったと記憶しています。平尾誠二さん擁する神戸が「スター軍団」なら、飯島さんが言うように三洋は「野武士軍団」。両雄の激突は当時の社会人ラグビーの“華”でした。
余談ですが、プロ野球の監督として、日本シリーズに8回挑み、いずれも敗れた西本幸雄さんとイメージが重なります。三洋にとっての神戸は、西本さん率いる阪急にとっての巨人でした。
生前、西本さんは私にこう語りました。
「ON(王貞治・長嶋茂雄)のいる巨人に、ウチ(阪急)の雑草たちが懸命に立ち向かっている。その姿をベンチから見ているだけで、僕は胸がいっぱいやったね」
もしかすると、宮地さんも、同じような心境だったかもしれません。
4月30日現在、ワイルドナイツは15勝1敗、総勝ち点68で首位を走っています。「宮地さんのためにも優勝したい」(坂手淳史主将)。選手たちは墓前に吉報を届けたい、と決意を新たにしています。
データが取得できませんでした


以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。